価値と嗜好

後藤さんのブログ(id:eaglegoto)更新されているのを確認しました。星野さんの書き込みへの感想を投稿しましたが、管理者からの承認がないと公開されない設定になっているのに気付きました。

後藤さんは、主観的好み、嗜好に美的判断を還元する考え方に一貫して反対してきたとおっしゃっていますが、私は若干の異論があります。音楽聴取など、個人的、私的にみえる営みも、共同的なものだと考えているからです。後藤さんは現象学の立場に立たれるわけですから、間主観性、共同主観性を強調されるのでしょうが。
私は、嗜好というのは深い概念だと思っているのです。若干ニーチェ風ですが。審美的判断によって顕にされるのは、実のところ私の存在の内実だという考え方があります。○○を好むと判断する【私】そのものが、文化的実践の積み重ねの結果沈殿してきた【効果】であり、共同的、共同体的なものだと思います。
ミシェル・フーコーが晩年に、生存(実存)の美学というのを提唱しましたが、私の読みでは、あれは個人主義への回帰ではなく、暗黙に存続する共同体的創意、生の様式の発案・発明の称揚だと思うのです。というのは、フーコーにとって問題だったのは、ゲイ・コミュニティであり、性現象をいかに生きるかということで、「現在」時における自分達の存在が問われるという事態だったからです。

多文化主義、文化相対主義について。概ね賛成ですが、音楽を離れると厄介な事例があります。例えばアフリカの一部に残る女子割礼やインドの名誉殺人など、女性(など一部の人々)の権利を著しく損ねるような文化慣習をどう考えればいいのかという問題です。普遍的人権を持ってくることは、実質上、西洋(西欧)の文化的価値観を持ち込むことです。以前、このテーマでの講演会を企画しましたが、結論は忘れてしまいました(汗)。ですが、個々の文化を平等に尊重する文化相対主義多文化主義を堅持しつつ、残虐な慣習を内在的に批判していく方法もあるように思います。
また、異性愛社会と異なるゲイ・コミュニティ(など、もろもろの性的少数者のコミュニティ)を考えてみましょう。この場合も、白人優位(人種差別)や男性特権など多くの問題があることは明らかでしょう。それらをコミュニティ内在的に取り組む方策はあると思います。

音楽と関係ない話をしているようですが、ジャズの場合も同じだと思うのです。ジャズ・コミュニティ、ジャズ共同体などを想定してみるといいと思います。後藤さんなど現象学を支持する人達の意見に似てきますが、美的判断はあくまで個々人が行うものですが、共同体による洗練・吟味を経て一般化されると考えることもできます。
チャールズ・サンダース・パースを以前紹介しましたが、彼は、科学的真偽は、科学者集団の討議が決定するというプラグマティズム(プラグマティシズム)の立場に立っていました。私は、それを審美的判断に応用してみたのです。ジャズに関する審美的判断(美醜)は、あくまで個々が行うものだけれども、ジャズ共同体による討議・洗練・淘汰などを経て一般化される、というものです。微妙な留保をしましたが、真偽を問う科学的判断と美醜を問う審美的判断(趣味判断)で若干条件が違いますので、あくまで判断は個々というのを強調した次第です(この辺りについては、カント『判断力批判』などをご参照願えれば幸いです)。