関本洋司の想い出

おはようございます。書こうと思ったことをすぐにどんどん忘れてしまうので困りますが、とりあえず、関本洋司さんについて。私が彼と初めてお会いしたのは、Be Good Cafeだったと思いますが、帰ろうとしたら突然、帽子を被った見知らぬ男から、「攝津さんですよね?」と声を掛けられ、びっくりしたら、それが関本さんだったのです。彼がどうして私のことを知っていたのかはよく分かりません。関本さんの第一印象は挙動が不審ということで、それはマニエリスムというのでしょうか、例えば右手の振り方、動かし方などに特徴的な何かがあったということです。

その後関本さんとは親しく付き合ったし、随分長く話し合ったし、一緒に"Cafe S"をやってみたり("S"というのは、まず何よりも、「関本洋司」のイニシャルです)、いろいろなことがありました。

関本さんのメールやブログ(彼はどういうわけか、膨大な数のブログを運営していましたが、代表的なものは楽天ブログでした)もよく読んだし、まあ、いろいろあったのですが、とりあえず一番重要なのは、彼が歌を歌っていたことです。

立花泰彦さんというフリージャズのベーシストの方がNAM芸術系の代表になりましたが、その立花さんの御意見では、NAMで音楽をやっている人々は多いけれども、ものになるのは関本さんの歌だけだ、ということでした。

関本さんは結構膨大な数の曲を自作自演して、カフェスローで歌っていました。地域通貨のQが生まれますと、彼はそのテーマソングを書き、自分で歌いました。その歌詞は、「慌てるな、ゆっくりやるんだ」というところから始まります。

立花さんは関本さんの音楽性を非常に評価しましたから、関本さんはカフェスローで、プロのジャズミュージシャン連中をバックに歌う、という豪華なことになりました。

関本さんと直接会ってお話ししたことも沢山無数にあるし、メールも読みましたが、そういう人々は多かったけれども、多分に直感的というか、非常に論旨の飛躍が多い文章でした。彼が非常に好きなのは老子プルードンでした。そして、彼は、自分のその選択に関しては譲りませんでした。彼はマルクス(主義)がいいと思わなかったのです。

その後大学院を終えたと思いますが、十年前は彼は実家のアパート経営で生活しており、早稲田大学大学院教育学研究科で日本近代文学、特に武田泰淳を研究していました。その関本さんの武田泰淳論はいかがなものか、というのが倉数さんの御意見でしたが、文学の専門家ではない、というくらいしかいえません。

それから大事なことは、彼が映画が非常に好きで、特に黒澤明のファンだったということです。ところが、彼は眼に障害がありました。手術して、ほんの短い間だけ両眼がきちんと見えるようになったようです。ですから、「僕は一度だけ黒澤明の『乱』を両眼で観たことがある」と彼はいっていました。

関本さんのことについては詳しくはまた後で立ち戻りますが、紛争への対応についていえば、彼はパソコンが壊れたという理由で全くタッチしませんでした。そしてNAM解散直前に、パソコンが修理され、メーリングリストに戻ってきて、Qについてちょっと何かいっただけで、「現実を知らない、いい歳をしてバイトすらやったこともないお坊っちゃんだ」などと人格誹謗されてしまいました。その意見に、関本さんは、僕は精神病院でバイトをしていた、と反駁していました。

関本さんは横浜の人でしたから、彼にそういう残酷な嘲罵を浴びせた関西の人は実際には関本さんと一度も会ったことはなかったのですが、関本さんについての悪い噂や風評のようなものが関西で蔓延していて、それがメーリングリストで持ち出された、ということのようでした。

関本さんはナマケモノ倶楽部にも入って、一時、地域通貨族というのをやっていましたが、その後、理由は知りませんが、活動を停止したようです。

関本さんについていえるのは、彼が非常に優しい人柄だったということです。例えば、柄谷さんの息子さんが実行した地域貨幣破壊がありましたが、関本さんはそれをどうしても「不正」高額取引ということができず、単に「高額取引」といっていたのですが、そのことを西部忠さんから叱責されていました。不正高額取引だろうと高額取引だろうと、どっちでもいいんじゃないか、とか思いますが。

関本さんは、蛭田葵さんとうまくやっていたし、蛭田さんと長期的にうまくやれる多分唯一の人だったと思いますが、私からみればなんとなく漠然と東洋、アジアという感じがしました。蛭田さんという人は元々上野の動物園で働いていた人なのですが、中国との関わりが深い人です。

NAMの中心的な人々全員について、それは関本さんや蛭田さんだけではなく、飛弾五郎さんなどもそうですが、マルクス主義とは一切何の関係もなかった、あらゆる意味で、と思います。それでもいいのですが、そういう彼らの関心のありかややりたいことが、私には不明でした。

蛭田さんとうまくやれたのは関本さんだけだというのは、彼は関西の連中全員と喧嘩していたし(水谷さん、福井さんなど)、立花さんともぎくしゃくしていたからです。蛭田さんは、地域貨幣で事業を起こすべきだと立花さんに執拗に言い募っては、性急だし、現実性がない、と斥けられていました。

関西の連中のことはよく分かりませんが、彼らは蛭田さんや私を含め関東の全員が、現実性や経営感覚がないと看做していたようです。

蛭田さんは、「よく大きな声で怒鳴る」ということで有名でした。何か問題があると、メールではまどろっこしいから(彼はメールが嫌いでした)、電話を掛けてきて怒鳴る、とかいうことでした。

例えば、問題を起こしまくっていた、だめ連の栗原信義のことも蛭田さんは怒鳴りました。メーリングリストで栗原さんがそのことに苦情をいうと、蛭田さんは、それは君達の感覚がおかしいのだ、中国ではみんなこのくらい大きな声で話す、と平然としていました。

話を戻せば、カフェスローでの2回目か3回目の地域貨幣イヴェントのときも、関西の連中、福井、水谷などを招いてシンポジウムをやったのですが、そこでも蛭田さんは、意見があわないという理由で関西の連中を怒鳴りつけてしまいました。

私からみれば蛭田さんほど短気で性急な人も珍しいと思いますが、その彼の口癖が「NAMは数十年、数百年単位の運動だ」ということだったのには呆れてしまいます。

関本さんと蛭田さんがうまくいったというのは、関本さん自身は本当に悠然としていたから、蛭田さんの性急を受け入れることができたのだろう、というくらいです。それでも彼らはよく喧嘩していました。

パスワードを紛失して更新できなくなりましたが、関本洋司さん、鈴木健太郎さん、私の三人でウェッブサイトを運営していたことがありますが、それがどうしてもうまくいかなかったのは、私自身の極端な考え方はともかく、関本さんの意見と鈴木さんの意見がありとあらゆる意味で正反対だったからです。

鈴木さんは現実に批評家志望ですが、彼は全てについて批評的です。例えば、NAMのごく初期に、初対面の田中正治さんに、いきなり、あなたは「農本主義」だとかいう批判を投げつけて、怒らせてしまいました。

温厚な田中さんが怒ったのをみたときはそのときだけですが、田中さんは、実践によって検証されない思想は無意味である、空疎な批判である、と憤っていましたが、それはその通りなのではないでしょうか。

鈴木さんと関本さんの意見が反対だった、というのは、関本さんは、近年非常に多いパターンですが、漠然と農業などのオルタナティヴがいいと感じる、という人だったからです。鈴木さんからみればそれが蒙昧だということですが、鈴木さんに何か理論や実践があるわけではありません。「スローデス」という辻信一批判を我々のウェッブに掲載して、すが秀実から褒められたくらいですが、私は快く思いませんでした。

私が鈴木さんによる田中さん、辻さんへの批判を好まなかったし支持できなかったのは、例えば、辻さんがよく日本各地の商工会議所とか地域の青年団のようなところに招かれて講演するわけですが、鈴木さんはそれを批判します。ですが、そういう理由で、体制擁護のイデオロギーだとかいっても仕方がないでしょう。そのことは、辻さんや中村隆市さんの「スロービジネス」が、現実的で妥当だし、人々から受け入れられている、という意味しかありません。

そういう発想は左翼にはありがちですが、生産性を感じないというか、鈴木さんは労働運動を持ち出すけれども、別に彼自身が何か労働運動をやっているわけでもない、とかいうことです。

(故)藤本さん、田中さんなどの鴨川自然王国を貶してもいいですが、そうすると、それに代わる理念や実践があるのでしょうか。私が客観的で公平に判断すれば、それは全く何一つない、ということですが。

田中さんの農業、辻さんのスロー思想(エコロジー)は、調和的ですから、それが何か現実(例えば、非正規労働者など)を覆い隠す、という指摘はあるのかもしれませんが、そこに両立不可能性があるとは私は思いません。都市の労働者の生活が苦しいから、農業は欺瞞なのでしょうか。そんなはずがないですが。

それからもう少し細かくみる必要がありますが、同志社大学の左翼活動家で伝説的な人物であった田中正治さんが、歳を取って、パートナーの阿部さんと一緒に農、自然、エコロジーを志向した経緯や理由を丁寧に検討したほうがいいでしょう。鈴木さんは、年寄りの蒙昧、とか片付けてしまいますが。

80年代以降、左翼(マルクス主義者)がエコロジーを志向するケースが非常に多く、マルクス主義が維持される場合もあれば、修正・抛棄されるケースもあります。そしてそういうことになっているのには、現実的な理由があります。マルクスエンゲルスなどが考えた以上に自然環境とか有限な資源の問題が深刻なのではないか、ということですし(そうしますと、進歩・発展が無限、無際限である、と楽天的に看做すことができなくなります)、共産主義革命、プロレタリア革命はありとあらゆる意味で実行不可能だということです。

ただ、昔、フェミニズムマルクス主義の不幸な結婚、という本がありましたが、エコロジーマルクス主義共産主義)がそれほどうまくいくのか、ということもあります。エコロジストからみれば、マルクス主義は近代的な科学・技術万能の考え方にみえることもあります。逆に、左翼からみてエコロジーが幻想、信仰、蒙昧にみえる場合もあります。鈴木さんの批判は、これですよね。

マルクス主義とは関係がないところで、エコロジーの主張は科学的、合理的に根拠がないとか、洗脳だという本が膨大にありますね。勿論、合理的に検証できるならしたほうがいいですが、限界があるというか、どうしても実証できない部分もあるのではないでしょうか。そして、証明できない要素を考慮する、ということは、別に蒙昧ではないと思います。

確かにエコロジーの思想や実践といっても、お洒落感覚の軽いノリから、本当に離島に移り住んでしまうディープエコまであるわけですし、なかには本当に宗教と見分けがつかない団体もあるようですが、全部が全部そうではないでしょう。

地球温暖化についても、実は温暖化しておらず寒冷化している、詐欺だ、という主張が多いですね。それはそうかもしれません。ただ大事なのは、人間の自然への過剰な働きかけが後戻り不能なほど環境を変えている可能性があるから、それを抑制したほうがいい、ということで、それは温暖化していようとしていまいと、余り関係がありません。

現在の脱原発の文脈でいえば、こうですね。地球温暖化は詐欺で、寒冷化している、という脱原発派(一部)は、原発をやめて、石油資源をどんどん使えばいい、火力発電所をがんがん動かせばいい、という意見です。確かに原発を動かすのをやめれば、一時的に火力に依存するのは避けられないでしょうが、それをそのままにしても環境に影響はない、というのは、本当なのでしょうか。

短期的なことはともかく、将来を考えれば、どうみても化石燃料以外のエネルギーを模索したほうがいいでしょう。

読んでいて厭になることもありますが、私なりに公平に読みますと、エコロジストの意見の70%以上は妥当です。例えば、きくちゆみさんがそうです。支持できない30%とは何かといえば、9.11はアメリカ政府の自作自演とかいう話です。

しかしながら、9.11=自作自演、陰謀と思わなくても、ただ漠然ときくちゆみさんなどに賛成することはできるでしょう。そして、それでいいと思いますが。

きくちゆみさんが翻訳したグリフィン博士の本も覗いてみましたが、私自身は建築のことを知らないから、不可解なビルの倒壊についてのグリフィン博士やきくちゆみさんの意見を検証できない、ということです。ですからきくちゆみさんの意見を反証できませんが、信じるわけにもいきません。

ただ、そういうことはともかく、きくちゆみさんがやっていることのかなりの部分がいいと思うということです。彼女はアメリカの銀行に勤務して金融をやっていましたが、マネーゲームが虚しくなり、鴨川で「農的暮らし」を始め、「スピリチュアリズム」に嵌りました。「マテリアリスト(唯物論者)」からみて「スピリチュアリズム」がどうかということもありますが、漠然と自然がいい、愛がいい、などと思ったということは、誰からも非難される謂れはないでしょう。