近況アップデート

個人的な意見ですが、関本さんを残酷に否定したNAMの人々よりも関本さんのほうが素晴らしいと思います。関本さんは、NAMの人々から、古臭いとか現実を知らないお坊ちゃまだとか散々に罵倒されてしまいました。でもそのような人々は、「いまやQではなくLの時代だ」とか考えていたわけです。2012年の現在からみれば、関本さんのほうが妥当だし正しかったのではないしょうか。

倉数さんは関本さんに面と向かって、関本さんの武田泰淳論に根拠がないといいました。それはそうかもしれませんが、そういうことがそんなに大事なのかというのは私には分かりません。近代文学の専門家である倉数さんからみれば、大学院の教育学研究科(文学研究科ではなく)にいた関本さんが近代文学について語ることはつまらなくみえたのでしょうが、でもNAMは文学を討議する場ではなく、ああいったものであっても、やはり社会運動でした。そういう観点からみますと、関本さんが考えていたり、主張していたり、実行していたことのほうが遥かに有意義であったと思います。

同様に、NAMよりも環境NGOナマケモノ倶楽部のほうがあらゆる意味で有意義だし(NAMなどは歴史に残りませんが、ナマケモノ倶楽部は残るでしょう)、『NAM原理』や『トランスクリティーク』よりも『スロー・イズ・ビューティフル』が素晴らしいと思います。そのように考える私がどうして、ナマケモノ倶楽部に入らないかといえば、健康状態が悪いので、集会、オフ会に出掛けることもMLのメールを読むこともままならないからです。

元々辻信一さんは『思想の科学』に書いていたような人で、柔軟でリベラルな方ですが、(故)武井昭夫さんやすが秀実さんのような原則的な左翼は『思想の科学』や鶴見俊輔やリベラルを残酷に否定してしまいます。そのことが昔から疑問です。私のような凡庸な人間からみれば、鶴見俊輔や『思想の科学』、辻信一さんやナマケモノ倶楽部のほうが教条的な左翼よりもいいのではないかと感じてしまいます。

元々NAMはそれほど教条主義ではなかったはずですが、最終的にそうなってしまいました。柄谷さんも杉原さんも、QやLETSが経済学、『資本論』で正当化できないという理由で否定しましたが、根拠がないと思います。LETSのようなものが経済学の教科書に載っていないなどは当然のことで、批判する理由にはなりません。

関本さんがNAMはプルードン主義だと主張していたと先程いいましたが、私は、本当にそうであればどんなに良かっただろう、と思います。『資本論』を権威主義的に持ち出してくだらない議論をするよりも、そのほうが遥かにましだったでしょう。そのようにいう私は、別にマルクスや『資本論』が嫌いではありません。でも、『資本論』を教条主義的に持ち出すことには懐疑的です。例えば杉原さんにとっては、価値形態論だけが重要に思えたとしても、私は納得できません。

NAMには、『スロー・イズ・ビューティフル』の辻信一さんや『地球生活』(平凡社ライブラリー)という素晴らしい本を書きグリーンピースの事務局長までやった星川淳さんのようなエコロジストも入っており、私は彼らとNAMで出会ったわけですが、客観的にいって柄谷さんの思想よりもエコロジストの意見のほうに意味がある、説得力があると感じました。ですから私は、小倉さん、田中さん、辻さん、星川さんと遭遇したということだけは、NAMに入った意味があったと思っています。

そのようにいう私自身、まだ若かった十年前の時点で、エコロジーの重要性を理解していたというわけではありません。むしろ、そのような方面のことを全然知りませんでした。啓蒙思想を研究していたような人から、星川淳は非常に重要だと教えてもらって、勉強したのです。

NAMの人々が知識的、文化的であったとしても(私はそのことすら疑っていますが)、そういうことが何なのか、とか思います。とりたてて根拠はありませんが、長い目でみれば素朴にこつこつやるタイプの人々(関本さんのような)が勝利すると思います。そうとでも考えなければ、ちょっと救いがありません。

少し皮肉をいえば、「いまやQではなくLの時代だ」などということを軽々しく信じてしまう(そしてそういう自分が正義だと思って、Qをやっている関本さんのことを時代遅れであるなどと残酷に否定してしまう)人々が知的であるとか、まともな判断力があるとは思えません。岡崎さん、倉数さん、啓蒙主義研究者は信じませんでした。杉原さんさえそうです。NAMのMLで柄谷さんの構想を称賛したとしても、社交辞令です。彼は彼自身が作ったMLで、結局のところ柄谷さんのいう人民通貨というのはよく分からないといっていました。そのようにいう私自身が知的だとか判断力があるなどと主張したいわけではありません。むしろ、西暦2000年の時点で軽々しくNAMの原理を信用したのですから、知的でもないし判断力もないというべきでしょう。倉数さんは近畿大学で柄谷さんの弟子でしたが、そもそも最初から「くじ引き」に懐疑的だったのです。そういう人のほうがまともでしょう。

ちょっと反省をいえば、幾ら感情的なわだかまりがあるとしても、柳原さん、柄谷さん、岡崎さん、宮地さんなどを残酷に否定し過ぎたと思います。冷静にいえば、彼らの人格と思想(理論)、実践は区別すべきでしょうから、そういう意味ではやはり柳原さんの福島疎開裁判や世界市民法廷、柄谷さんの反原発デモは素晴らしいし意味があるのだと考えるべきでしょう。十年前に事実誤認があったから柳原さんは死んでしまったとかいっても、とりたてて意味などないでしょうから。柄谷さんさえも、私が幾ら恨んでもしょうがないことだということくらいは承知しています。

ほんの少し事実関係をいえば、杉原さんという人は実は最初NAMの原理を少し疑っていました。けれども、NAM大阪のMLで、柄谷さんから、君はNAMの原理と「契約」して入ってきたのではないかなどと厳しくいわれてしまい、疑問を口にしなくなったのです。そして、「理論」を山城さんなどの知識人に委ね、彼自身は地道な実務に没頭しましたが、2002年末になってそのことをしきりに後悔していました。理論的考察とか吟味などは、本当は「分業」できません。誰もが自分の頭で考えるしかないのです。でもNAMでは、誰か他人、柄谷さんや西部さん、山城さんその他が自分の代わりに理論や思想を考えてくれるはずだと思えてしまいました。そのことが一番の間違いであったと思います。