Miles Davis, Get Up With It

【Blu-spec CD】ゲット・アップ・ウィズ・イット

【Blu-spec CD】ゲット・アップ・ウィズ・イット

Duke Ellington追悼のHe Loved Him Madlyが非常に素晴らしい。これほど沈鬱な音楽は他にないであろう。MilesのOrganも最高。

Art Tatum, Red Callender, Jo Jones, The Tatum Group Masterpieces

ジ・アート・テイタム・トリオ

ジ・アート・テイタム・トリオ

何度も書いているが、私はこれが、Jazz史における一つの頂点と考えている。特に一曲目のJust One Of Those Things(Cole Porter)は、比較するとすればBud Powellしかないような名演。

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哲学者=作家=音楽家 攝津正
http://www.geocities.jp/tadashi_settsu/

増殖する自分。(2010年12月21日(火))

Miles Davis, Get Up With Itを聴きながら、ホームページ(このサイト)の整理をした。不要なファイルや古くなった内容を削除し、多くのサブディレクトリを追加した。Milesは全編にわたって面白いが、特にDuke Ellingtonを追悼したHe Loved Him Madlyの静謐な悲しみは素晴らしい。これほどの音楽は、そうはない。そう思いつつ、ホームページ=自分自身のヴァーチャルな分身を無限増殖させているのであるが。無限増殖させても全て更新できるわけではないので、無意味だとも思うが。ところで、船橋市北図書館に本とビデオを返却に行ったが、欝で何も借りてこられなかった。レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』を借りてこようかとも迷ったのだが。フローベールジョイスプルーストベケットドストエフスキーなど世界の名作を読みたい気持ちと、推理小説やSFを読みたい気持ちが両方ある。結局、どっちも読めないのだろうな。こうやって駄文を書き散らす以外、私には出来ないのだろうな。筋を構築したり、登場人物を造形したり出来ないからな。まあ。それはいいとして。私は生存困難系と語ったのだった。それは生き残れない、という意味においてだ。この苛酷な資本主義的環境で勝ち組に回るのは至難の技だ。昨日笑ったのだが、2ちゃんねるを読んでいると、攝津正を含め年収1000万円以下の負け組貧民は皆死ね、俺ら勝ち組の足を引っ張るな、という書き込みがあった。今年収1000万円以上を稼いでいる30代がどれくらいいるだろう。そして、それら勝ち組は、競争に敗れたものがいるから勝ち組でいられるのではないのか。というようなことを思ったが、負け犬の遠吠えか(笑)。まあ、いいのだが。私は年収100万円にも届かないであろう。攝津家は貧乏である。笑い出したいくらい貧乏である。貧乏とはいえ、途上国の人民のような「絶対的貧困」ではない。何とか生きていけるし、死ぬまでは生きていけるのだから、まあよし、とすべきだろう。我々の命の値段は軽い。我々は、危機を生き延びられぬであろう。だが、ああ! それでいいのだ! 今生きている、これが大事なのだ! それ以上を望むのは贅沢である。今生きてあることの幸せを思え。35歳まで生き延びられただけでも良かったではないか。私は、何度も自殺寸前まで行った。親が生きているから、死ななかった/死ねなかった。それもまた、運命…。

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攝津正総合案内所
http://book.geocities.jp/tadashisettsusougou/

2010年12月21日(火)

攝津正である。
ホームページを整理中である。このホームページも大幅に改稿することにした。過去の表紙は、上にある「過去の表紙」というのをクリックしていただければ、飛べるようになっている。今後は、この表紙自体に書き込むということと、無数のサブディレクトリを追加して整理していくといったふうにしていきたい。
そうはいっても代わり映えしないような気もするが(笑)。ホームページを幾ら無限増殖させても、自然人である攝津正個人は一人であり、全てのホームページを一挙に更新できるわけではない。とはいえ、ホームページを増やし、ページ数を増やし、サブディレクトリを増やすことは、私の自己満足に繋がるのでそのようにした。
私は本当は、小説、物語が書きたいのである。だが、どうしても書けぬ。才能がなく、技術もない。越えられぬ壁があるのだ。私は14歳の頃、発狂してしまい、以後、物語を紡ぐことが出来なくなってしまった。以降私が呟くのは断片のみである。それも下らぬ「自分語り」の。読者がそういったものに嫌悪を感じるとしてもそれは当然である。読者は、私の書くものを読まぬ権利がある。だが、読んだからには、私に文句を言うのはやめてもらいたい。
というわけで、攝津正ワールドへようこそ!

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Queers Association
http://beauty.geocities.jp/queers_association/

2010年12月21日(火)

攝津正である。
Queers Associationを立ち上げたのは確か2003年だ。以降、管理人の私の怠慢もあり、冬眠状態、実質活動休止であったことをお詫びする。私は貧乏で、運動に使える金と時間がない。それで放置してしまっている。その条件は、今後も当面は変わりそうもない。そのことを重ね重ねお詫びする。
しかし、石原慎太郎東京都知事の同性愛者や「変態」への暴言など、情勢は沈黙を許さぬものがある。それで、このサイトやブログ、ジオログ等もできるだけ動かすようにしたいと思った。今後はなるべく頻繁にサイト更新していく予定である。
私がQueers Associationを立ち上げたそもそもの動機は、関西のような自由なクィア運動が関東に見当たらないので、自分で作ろうということだった。関東の運動は、Occurにせよ、性的指向の概念などに縛られて、不自由なようにみえる。パレードも名称は変わったが、警察権力と対峙する姿勢はなく、どこまでも妥協・後退に終始しているようにみえる。日本の例外的に不自由なデモ環境を少しでも変えていく方向ではなく、それに適応し妥協しようとする方向であるようにみえる。私は、それに不満を持ち、実際に自分でデモもやった。参加者は数人でしかなかったが。私は、ラディカルな思想なり運動とクィアを切り離したくない。クィアをラディカリズムの性的な表現であると捉えたい。その意味で、私の語るクィア政治的クィアである。かつて政治的レズビアンが語られたように。
というわけで、これからもよろしくお願いしたい。

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自由放送
http://park.geocities.jp/kalayaan_japan/

2010年12月21日(火)

自由放送は、2003年にNAM=New Associationist Movementが解散した後に、有志によって立ち上げられた倫理的な運動を目指す諸個人の集まりである団体です。当初、伊丹高さんと大和田善博さんが世話人(ML管理人)をなさっていましたが、伊丹さんが退任し、大和田さんも管理の負担を訴えられたので、攝津正が管理人に交替しています。

2010年末現在、残念ながら自由放送としての活動はほとんどない状態です。ただ、皆川万葉さん、西脇尚人さんらが、パレスチナや沖縄に根を張って、独自の活動を続けています。

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南無
http://www.geocities.jp/tadashisettsunam/

2010年12月21日(火)

南無(=NAM)の基本戦略はボイコット(不買)、LETS地域通貨)、協同組合、フェアトレード等である。つまり、2000年前後に存在したNAMと同一である。ただ、NAMが中間層、相対的に富裕な層から運動を起こそうとしたのに対し、南無(=NAM)を立ち上げている攝津正は貧困であるから、貧困なものの運動を目指す。貧しいものの生存運動という新たな側面を持つ。その観点から、ベーシック・インカムや労働、雇用の問題にも積極的に取り組む。

南無(=NAM)はコミュニズム的であり、アソシエーショニズム的である。そして世界共和国への欲動を隠そうともしない(笑)。ただ、世界共和国の理念は、個々人の力では実現できぬと思うので、それは単に主観的願望に留まる。

私は制度的には、つまり法的には日本国民であり船橋市民であるから、日本という国家や千葉県、船橋市といった地方自治体を変えていく運動をしたい。まず、日本国家の戦争国家化に反対したい。そして、ゼロ成長の時代において持続可能な経営なり労働を模索したい。

例えば、私は、二和向台という町に住んでいるが、ほとんど商店街もシャッター通りであり、寂れてしまっている。三軒あった書店も全部潰れた。そのように貧困になっていく「故郷」(私は出身は大分県別府市だが、もうこの船橋市に20年余も住み続けているので、ここが第二の故郷のようなものだ)、荒廃するばかりの「故郷」をどうにか活気ある街にしていきたい。とはいえ、そんなことも、ただの高齢ひきこもり、高齢ニートでしかない私には、大き過ぎる課題である。私に出来ることは、本当に少ない。

しかしそれでも、絶望はせずにいたい。変革の可能性に向けて身を開いていたい。そう願っている。主観的に願望しているだけだが。

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共産主義者攝津正
http://www.geocities.jp/tadashisettsucommunist/

再び共産主義を考える。(2010年12月21日(火))

言うまでもないが、共産主義者であるとは日本共産党の党員ないしシンパであることを意味しない。私は社民党支持者である。そして、それのみならず、議会政治(代議制)を超えた政治的取り組みがあると考える。

民主党がもたらした「政権交代」。それが顕わにしたものは、代議制民主主義、代表システムそのものの機能不全ではないだろうか。議会や内閣、司法など国の権力機関は、我々(「日本国民」に限らぬ)の声を聞かぬ。我々が我々の要求を実現しようとすれば、直接、我々自身の手で、そうしなければならないのである。

この「我々」をどう呼ぶかについては議論がある。人々(=people)、マルチチュードプレカリアート等呼び方は様々である。だが、呼び名はどうでもいいのである。実質が重要だ。「我々」が共通で共同の存在として生起するということが大事なのである。つまり、友として。

しかし、社会には深刻な亀裂や断絶が厳然とある。それから目を逸らすのはイデオロギー的倒錯に過ぎぬであろう。かつてのマルクス主義が指摘したような、階級による対立も残っているし(その様相は複雑化する一方だとしても)、民族や性、障害など多数多様な属性において相違や対立がある。そのことが「我々」の安楽な成立を妨げているというのは事実である。

私は、そのような亀裂や断絶を想像的に埋める、解消することを提唱するものではない。対立は厳然と「ある」のだ。そのことを認めたうえで、かつて「階級闘争」と語られたような事象を、新たな形態で蘇らせることが必要であると思うのだ。その闘争は多様なレヴェルで存在している。政治的、経済的、文化的、等々。

かつてネグリガタリと共著を書き、その最後を「愛」で締め括った。その身振りは余りに無防備に見えたが、我々は彼らの言葉を繰り返すであろう。「愛」による闘争こそが必要なのであると。友らへの連帯が必要なのであると。その意味で、私は今日も、共産主義者なのである。

自由の新たな空間

自由の新たな空間

Miles Davis, Live-Evil

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回避性パーソナリティ障害=不安パーソナリティ障害 攝津正
http://www.geocities.jp/tadashisettsuapd/

2010年12月21日(火)

攝津正である。
私は、回避性パーソナリティ障害=不安パーソナリティ障害である。そう診断されている。(Wikipediaの「回避性人格障害」の項目はこちらhttp://bit.ly/htkyBT。)以前は、社会不安障害(不安神経症)=SADと診断されていた。それがパーソナリティ障害となったわけである。診断が重くなったのか? 精神医学の専門家ではない私には、よく分からぬ。だが、Wikipediaを読むと、当て嵌る項目がかなり多いように思う。ひきこもりや世捨て人との関連が強い障害であるようだが、それは私にぴったりであると言えよう。私には、野心はあったが、今ではすっかり、自宅にひきこもり、ひきこもって殻に閉じこもって暮らす以外の選択肢が思い付かなくなっている。賃労働も辞めてしまった。二度と復帰できるとは思えない。とはいえ、裕福な家庭ではない。両親の死後は、自殺をも視野に入れねばならぬと思っている。私は、尊厳のある死を求める。恥ずかしい生よりも。
その意味で、生存の絶対的肯定を謳う左翼運動とは相容れないものを感じてきた。私にとって、生存への不適応は根本的なものであり、変えられないものである。どんな生であれ、良いのだ、とは私には思えなかった。肯定できぬ生もある。私にはそう思えた。
一旦ここで送る。

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超人攝津正
http://www.geocities.jp/tadashisettsusuper/

2010年12月21日(火)

攝津正である。
別のホームページで書いているように、私は精神病者(メンヘラー)である。強者どころか徹底的な弱者であると思われる私が、何故超人を語るのか。そのあたりから、書いていきたい。
「超人攝津正」というこのサイトの出処は、一つの笑いである。外山恒一の呟きを読んでの笑い。(こちらを参照。http://twitter.com/#!/toyamakoichi/status/8085087774056448

こういう最悪の時代だからこそ、ますます厚顔無恥に悪辣に、“恐ろしいインボー”的にコトを進めていくしかないのだろう。絶望して気が狂って当たり前だが、メンヘルを集めて傷を舐め合うような運動ではなく、ニーチェ的“超人”たちの「党」が必要なのだと改めて思う私はやっぱりファシスト

私は、この呟きを読んで笑った。そして、『ニーチェ的“超人”たちの「党」』は必然的、不可避的にファシスト党になるのだろうか、と(少し真剣に)自問した。そうではあるまい。ニーチェファシズムに回収されないように考察したのが、フーコーでありドゥルーズであり、要するに「あの時代」のフランス人達ではなかったか。ということは、ハイデガーからニーチェを取り戻す、ということだが。
私はドゥルージアンとして外山に応答する責任(笑)を感じた。言うまでもないが、責任(笑)というのは、どこまでも冗談である。ジョークの軽みにおいて、超人を捉えること。それはニーチェ的な身振りであると信じる。

はじめに戻るが、私はメンヘラーである。断っておけば、以前、左翼の友人が、メンヘラーというのは2ちゃんねる用語だから使うな、などと言ってきたが、それは違う。ごく普通に使われている言葉だ。だから、私も使う。ご了承願いたい。
メンヘラーの私が、何故超人を語るか。一つには、ニーチェ自身もメンヘラーであったからである。ニーチェは頭痛に苛まれて自殺を考える旨の手紙を友人に書き送ったりもしている(クロソウスキーニーチェと悪循環』、参照)。また、彼が頽廃(デカダンス)とか怨恨(ルサンチマン)などと呼ぶものを、彼自身体験してきている。ただ彼は、その体験を、「病者の光学」により、視点を変えて見るのだ。そこにニーチェニーチェたる所以がある。メンヘル的な苦しみに没入し切ってしまうのではなく、「距離の感覚」を保ち、ユーモアを失わぬこと。それがニーチェの散文を素敵なものにしている。

まあ、だが、ニーチェはもういい。彼は19世紀の人間だ。彼が書いたことは重要だが、ここは訓詁学をする場ではない。今、何故超人なのか? それを考えよう。
一つには、外山恒一千坂恭二ら自称ファシスト諸兄が指摘するように、既製左翼がPC的な「お説教」、つまり途轍もなく退屈な代物に成り下がってしまったということがある。
そこには享楽が、笑いが欠けている。そこにあるのは神経質な精神、規範、常識を逸脱すまいと必死な努力をする精神である。言い添えれば、私は左翼がそのようになるのも、或る意味では時代の必然と見ており、外山、千坂両氏のようにそれを直ちに全否定するものではない。「正義」はいかに退屈でも、陳腐でも、必要なのだからである。しかし、他方、享楽や笑いも必要である。肯定する精神も必要である。
それで私は超人を語った。半ば冗談として。──だが冗談というなら、惰民党も南無も、全て冗談ではないか? Queerも? そのように自問しつつも、また一つ冗談を増殖させることにした。無意味で無益だとしても。それで構わぬ。私自身が無意味な存在なのだから。
ここで一旦送る。

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文学者攝津正
http://www.geocities.jp/tadashisettsuliterature/101221/2100.html

21:00-21:25.

ジャズが聴こえる。マイルス。『ライヴ・イヴル』だ。キースがエレピで参加してるやつ。あの頃の音はどれもいい。あの頃、あの時代に憧れる。今はもう、失われてしまったものに。まだ、生まれてもいなかった。記憶は後から再構成されたものだ。だが、熱気は時を超えて伝わってくる。

聖書が書きたい。聖書など、読んだこともないが。資本論が書きたい。資本論など、理解したこともないが。そうだ、聖典。繰り返し読まれ、反復される文章を書きたいのだ。朗読にさえ堪える文章。それが出来れば!

ゆっくり読むこと、ゆっくり書くことを覚えねばならぬ。何でも速読術でやっつけるような習慣は、改めねば。箴言を書き付けるには、精神を、神経を張り詰めていなければならぬ。

自分の内部感覚、身体感覚。体の重さや熱。軽い風邪を引いているのではないか、というくらい。寝起きの感覚を保持すること。夢は、忘れてしまうのだとしても。

すぐに、瞬間的に済ませてしまわねばならぬという強迫観念は、多くを犠牲にする。そのために成らぬ多くのことがある。ゆっくりと、時間を掛けねばならぬ事柄があるのだ。

キースのエレピ。重いベース。ドラムスは、誰だ?

書かねばならぬ。描写せねばならぬ。人物造型せねばならぬ!

精神の躍動、神経の震えを、文字にして定着させる。

自分自身を無数のウェブサイトにバラバラにする、そうして見分けがつかなくする。自分でも把握できぬほどに。そして、匿名の声と溶け合う。匿名の声はただ語る。語られる事柄を書き付ける。もう七年も使っているノートパソコンに入力する。断片はいつまでも、断片のままだ。

『ライヴ・イヴル』は濃厚な夜の雰囲気だ。そういえば、同じマイルスの、『ゲット・アップ・ウィズ・イット』もそうだった。亡くなったデューク・エリントンを追悼する音楽。悲哀の感情。マイルスの弾くオルガン。マイルスは昔から、「夜の音楽」ではなかったか? ジャズはそもそも、夜のものでは? 或いは音楽一般は? 一日の仕事を終えた眠られぬ労働者達のための秘密。それが音楽だったのではないのか? 黒人奴隷を連想する。夜の熱狂のために、昼の能率を犠牲にする、サボタージュの担い手を。

ジャック・ケルアックに倣って自然発生的散文とやらを実践しようとしているが(もう十五年以上前からだ)、なかなかうまくいかぬ。才能がないのか? それもあるだろう。ケルアックやヘンリー・ミラーと自分を比較するのは不遜であろう。彼らは真の天才だった。生命の充溢だった。彼らの文学は、ジャズ以上にジャズだった。常にケルアックやミラーが規範でありお手本だった。あの偉大なるアメリカ文学が。アメリカ文学、旅、そして生成。勿論ドゥルーズを経由してアメリカ文学に辿り着いたのではあるが。ドゥルーズは読む術を知っていた。彼は哲学者だったが、文章の達人だった。読み、そして書く術を知っていた。模倣しようと思って出来るものじゃない。ドゥルーズは唯一無二である。

毎日が単調な繰り返し。即興演奏と題するピアノ演奏も定型的で型に嵌っている(ワンパターンである)。毎日見る光景、知覚内容は全く同一だ。同じ両親の顔。自室。居間。店。机があり、椅子があり、ピアノがあり、パソコンがある。ここにもう一年近く、閉じこもっている。仕事を辞めてもうすぐ一年になるのだ。倉庫で働いていた。精神病で辞めた。三十五歳にして社会生活からドロップアウトし、ひきこもってもうじき一年。十年はじっとしていようと心に決めている。動くまいと。同じ生活を続けようと。そして、死すべき時が来たなら死のう、と。そう思ってきたのである。だが、心の動きも単調で、定型的である。毎日同じようなことを考え、感じ、類似した情緒を感じている。十年一日が如きとはこのことであろう。基本的に変化が何もない。人とも会わず、何処にも行かない(自宅近辺のスーパーマーケット数軒を除いては)。ほぼ完全なひきこもり生活である。無職無収入。将来の展望は、全く何もない。

Miles Davis, Seven Steps To Heaven

標語を考える。

  • 昇天する攝津正
  • 電波な攝津正
  • 黄泉の攝津正
  • スマイル攝津正
  • 自由連想攝津正
  • 達人攝津正
  • 嘘つき攝津正
  • 虚言癖攝津正
  • ジャズ狂攝津正
  • 気違い攝津正
  • 死と向き合う攝津正
  • 仮性包茎の攝津正
  • イケてない攝津正
  • 書けない攝津正
  • 夢見る攝津正
  • 怠惰な攝津正

ついでに一言。
修行するつもりがない。「超能力が得られますよ」と言われたとしても、そんなもの要らない。ただ安楽に暮らしたい怠惰な私である。宗教性が無いのだと思う。徹底して世俗的で功利的。快楽主義的。エピキュリアン。そして駄目人間。

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死ぬ攝津正
http://www.geocities.jp/tadashi_settsu/death/index.html

2010年12月21日(火)

Ustreamでも話した内容をメモ的に纏めておこうと思う。まず私は、自分自身の死に絶えず向き合って生きている。だが、その死とはリアルではない。その意味で私は、甘い。『完全自殺マニュアル』も暗記するほど読み返したが、自分に適した・良いと思う自殺手段を見つけられずにいる。だから、将来、両親が亡くなるなど「死すべき時」が訪れたとしても、死ねないのではないか、と不安だ。苦しい暮らしはしたくないのに、嫌々生き延びてしまうといった最悪の事態も予想されるので、それを避けるべく努力せねばならぬと思う。なお私は、宗教的、神秘主義的な修行をするつもりがない。超能力が得られますよとか、神秘体験が出来ますよなどと言われても、興味が無い。宗教的資質がゼロなのだと思う。現世的である。世俗的である。といっても、資本主義社会への適応能力もゼロなのだが。私は端的に無意味な存在であり、ゴミである。いつ廃棄されてもおかしくないし、廃棄されて良い。いつでも死ねるという覚悟だけは固めておく必要がある。私には、何も成し遂げられない。それは先験的に明らかである。文章も演奏も毎日、同じことの反復であり、進歩、向上の兆しは一切ない。故に世に認められるということもあり得ない。だから、生活能力も無く、扶養してくれる両親が逝ったら、自分も逝くべきだという結論になる。その結論は揺るがない。が、死ぬ手段が見付からない…。馬鹿げた自問自答だと思われるかもしれないが、日々そういうことばかり考えて過ごすのである。スピノザは、自由な人間は死について考えることが最も少ない、と語っていたと記憶するが、そうだとすれば、私は、スピノザのいう意味で「自由な人間」ではないということなのだろう。それで致し方がないと考える。私は、奴隷。

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攝津正の友達!
http://www.geocities.jp/tadashi_settsu/friends/index.html

2010年12月21日(火)

友達ってのは本当に有難いと思う。今日のUstream放送も、melonmaedaさんとyukie14さんが聴いてくださったわけだが、放送を視聴し応答してくれるごく少ない友人の存在に本当に支えられている。生きる力すら、友達からいただいている、と感じる。大袈裟にいえば、生きていられるのも、この人達のお蔭である。心底そう思う。私が発信しても、受信して応答してくれる人が皆無では、やり甲斐もあるまい。人生は壮大な暇潰し!なのだとしても、その暇潰しに付き合ってくれる誰かが必要だ。私は独りではいられない。だから友を求める。melonmaedaさん、iwayan77さん、yukie14さん、nakachiyamiさん、huratiさんらはそういう友であると思う。インターネットで出会ったのだが。この人達はいまや私にとって、本当に貴重な存在になっている。何故なら好んで私の表現を鑑賞しようという人は珍しいからである。日々感謝の心である。