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共産主義者攝津正
http://www.geocities.jp/tadashisettsucommunist/

再び共産主義を考える。(2010年12月21日(火))

言うまでもないが、共産主義者であるとは日本共産党の党員ないしシンパであることを意味しない。私は社民党支持者である。そして、それのみならず、議会政治(代議制)を超えた政治的取り組みがあると考える。

民主党がもたらした「政権交代」。それが顕わにしたものは、代議制民主主義、代表システムそのものの機能不全ではないだろうか。議会や内閣、司法など国の権力機関は、我々(「日本国民」に限らぬ)の声を聞かぬ。我々が我々の要求を実現しようとすれば、直接、我々自身の手で、そうしなければならないのである。

この「我々」をどう呼ぶかについては議論がある。人々(=people)、マルチチュードプレカリアート等呼び方は様々である。だが、呼び名はどうでもいいのである。実質が重要だ。「我々」が共通で共同の存在として生起するということが大事なのである。つまり、友として。

しかし、社会には深刻な亀裂や断絶が厳然とある。それから目を逸らすのはイデオロギー的倒錯に過ぎぬであろう。かつてのマルクス主義が指摘したような、階級による対立も残っているし(その様相は複雑化する一方だとしても)、民族や性、障害など多数多様な属性において相違や対立がある。そのことが「我々」の安楽な成立を妨げているというのは事実である。

私は、そのような亀裂や断絶を想像的に埋める、解消することを提唱するものではない。対立は厳然と「ある」のだ。そのことを認めたうえで、かつて「階級闘争」と語られたような事象を、新たな形態で蘇らせることが必要であると思うのだ。その闘争は多様なレヴェルで存在している。政治的、経済的、文化的、等々。

かつてネグリガタリと共著を書き、その最後を「愛」で締め括った。その身振りは余りに無防備に見えたが、我々は彼らの言葉を繰り返すであろう。「愛」による闘争こそが必要なのであると。友らへの連帯が必要なのであると。その意味で、私は今日も、共産主義者なのである。

自由の新たな空間

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