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超人攝津正
http://www.geocities.jp/tadashisettsusuper/

2010年12月21日(火)

攝津正である。
別のホームページで書いているように、私は精神病者(メンヘラー)である。強者どころか徹底的な弱者であると思われる私が、何故超人を語るのか。そのあたりから、書いていきたい。
「超人攝津正」というこのサイトの出処は、一つの笑いである。外山恒一の呟きを読んでの笑い。(こちらを参照。http://twitter.com/#!/toyamakoichi/status/8085087774056448

こういう最悪の時代だからこそ、ますます厚顔無恥に悪辣に、“恐ろしいインボー”的にコトを進めていくしかないのだろう。絶望して気が狂って当たり前だが、メンヘルを集めて傷を舐め合うような運動ではなく、ニーチェ的“超人”たちの「党」が必要なのだと改めて思う私はやっぱりファシスト

私は、この呟きを読んで笑った。そして、『ニーチェ的“超人”たちの「党」』は必然的、不可避的にファシスト党になるのだろうか、と(少し真剣に)自問した。そうではあるまい。ニーチェファシズムに回収されないように考察したのが、フーコーでありドゥルーズであり、要するに「あの時代」のフランス人達ではなかったか。ということは、ハイデガーからニーチェを取り戻す、ということだが。
私はドゥルージアンとして外山に応答する責任(笑)を感じた。言うまでもないが、責任(笑)というのは、どこまでも冗談である。ジョークの軽みにおいて、超人を捉えること。それはニーチェ的な身振りであると信じる。

はじめに戻るが、私はメンヘラーである。断っておけば、以前、左翼の友人が、メンヘラーというのは2ちゃんねる用語だから使うな、などと言ってきたが、それは違う。ごく普通に使われている言葉だ。だから、私も使う。ご了承願いたい。
メンヘラーの私が、何故超人を語るか。一つには、ニーチェ自身もメンヘラーであったからである。ニーチェは頭痛に苛まれて自殺を考える旨の手紙を友人に書き送ったりもしている(クロソウスキーニーチェと悪循環』、参照)。また、彼が頽廃(デカダンス)とか怨恨(ルサンチマン)などと呼ぶものを、彼自身体験してきている。ただ彼は、その体験を、「病者の光学」により、視点を変えて見るのだ。そこにニーチェニーチェたる所以がある。メンヘル的な苦しみに没入し切ってしまうのではなく、「距離の感覚」を保ち、ユーモアを失わぬこと。それがニーチェの散文を素敵なものにしている。

まあ、だが、ニーチェはもういい。彼は19世紀の人間だ。彼が書いたことは重要だが、ここは訓詁学をする場ではない。今、何故超人なのか? それを考えよう。
一つには、外山恒一千坂恭二ら自称ファシスト諸兄が指摘するように、既製左翼がPC的な「お説教」、つまり途轍もなく退屈な代物に成り下がってしまったということがある。
そこには享楽が、笑いが欠けている。そこにあるのは神経質な精神、規範、常識を逸脱すまいと必死な努力をする精神である。言い添えれば、私は左翼がそのようになるのも、或る意味では時代の必然と見ており、外山、千坂両氏のようにそれを直ちに全否定するものではない。「正義」はいかに退屈でも、陳腐でも、必要なのだからである。しかし、他方、享楽や笑いも必要である。肯定する精神も必要である。
それで私は超人を語った。半ば冗談として。──だが冗談というなら、惰民党も南無も、全て冗談ではないか? Queerも? そのように自問しつつも、また一つ冗談を増殖させることにした。無意味で無益だとしても。それで構わぬ。私自身が無意味な存在なのだから。
ここで一旦送る。