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文学者攝津正
http://www.geocities.jp/tadashisettsuliterature/101221/2100.html

21:00-21:25.

ジャズが聴こえる。マイルス。『ライヴ・イヴル』だ。キースがエレピで参加してるやつ。あの頃の音はどれもいい。あの頃、あの時代に憧れる。今はもう、失われてしまったものに。まだ、生まれてもいなかった。記憶は後から再構成されたものだ。だが、熱気は時を超えて伝わってくる。

聖書が書きたい。聖書など、読んだこともないが。資本論が書きたい。資本論など、理解したこともないが。そうだ、聖典。繰り返し読まれ、反復される文章を書きたいのだ。朗読にさえ堪える文章。それが出来れば!

ゆっくり読むこと、ゆっくり書くことを覚えねばならぬ。何でも速読術でやっつけるような習慣は、改めねば。箴言を書き付けるには、精神を、神経を張り詰めていなければならぬ。

自分の内部感覚、身体感覚。体の重さや熱。軽い風邪を引いているのではないか、というくらい。寝起きの感覚を保持すること。夢は、忘れてしまうのだとしても。

すぐに、瞬間的に済ませてしまわねばならぬという強迫観念は、多くを犠牲にする。そのために成らぬ多くのことがある。ゆっくりと、時間を掛けねばならぬ事柄があるのだ。

キースのエレピ。重いベース。ドラムスは、誰だ?

書かねばならぬ。描写せねばならぬ。人物造型せねばならぬ!

精神の躍動、神経の震えを、文字にして定着させる。

自分自身を無数のウェブサイトにバラバラにする、そうして見分けがつかなくする。自分でも把握できぬほどに。そして、匿名の声と溶け合う。匿名の声はただ語る。語られる事柄を書き付ける。もう七年も使っているノートパソコンに入力する。断片はいつまでも、断片のままだ。

『ライヴ・イヴル』は濃厚な夜の雰囲気だ。そういえば、同じマイルスの、『ゲット・アップ・ウィズ・イット』もそうだった。亡くなったデューク・エリントンを追悼する音楽。悲哀の感情。マイルスの弾くオルガン。マイルスは昔から、「夜の音楽」ではなかったか? ジャズはそもそも、夜のものでは? 或いは音楽一般は? 一日の仕事を終えた眠られぬ労働者達のための秘密。それが音楽だったのではないのか? 黒人奴隷を連想する。夜の熱狂のために、昼の能率を犠牲にする、サボタージュの担い手を。

ジャック・ケルアックに倣って自然発生的散文とやらを実践しようとしているが(もう十五年以上前からだ)、なかなかうまくいかぬ。才能がないのか? それもあるだろう。ケルアックやヘンリー・ミラーと自分を比較するのは不遜であろう。彼らは真の天才だった。生命の充溢だった。彼らの文学は、ジャズ以上にジャズだった。常にケルアックやミラーが規範でありお手本だった。あの偉大なるアメリカ文学が。アメリカ文学、旅、そして生成。勿論ドゥルーズを経由してアメリカ文学に辿り着いたのではあるが。ドゥルーズは読む術を知っていた。彼は哲学者だったが、文章の達人だった。読み、そして書く術を知っていた。模倣しようと思って出来るものじゃない。ドゥルーズは唯一無二である。

毎日が単調な繰り返し。即興演奏と題するピアノ演奏も定型的で型に嵌っている(ワンパターンである)。毎日見る光景、知覚内容は全く同一だ。同じ両親の顔。自室。居間。店。机があり、椅子があり、ピアノがあり、パソコンがある。ここにもう一年近く、閉じこもっている。仕事を辞めてもうすぐ一年になるのだ。倉庫で働いていた。精神病で辞めた。三十五歳にして社会生活からドロップアウトし、ひきこもってもうじき一年。十年はじっとしていようと心に決めている。動くまいと。同じ生活を続けようと。そして、死すべき時が来たなら死のう、と。そう思ってきたのである。だが、心の動きも単調で、定型的である。毎日同じようなことを考え、感じ、類似した情緒を感じている。十年一日が如きとはこのことであろう。基本的に変化が何もない。人とも会わず、何処にも行かない(自宅近辺のスーパーマーケット数軒を除いては)。ほぼ完全なひきこもり生活である。無職無収入。将来の展望は、全く何もない。