いがらし奈波萌え〜

超美少女!元ジャニーズJr.!「キャンディ・キャンディ」作者の息子が「男の娘」として漫画家デビュー!
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1412064&media_id=14

いいじゃん! どんどんデビューして欲しい。それにしても、親公認「男の娘」とは超羨ましいぞ!

関連リンク:
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101119-00000003-flix-movi
http://www.cosme-boy.com/talent/nanami.html
http://bit.ly/9DFM4a
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1011/19/news061.html

わが輩は「男の娘」である! (コンペイトウ書房)

わが輩は「男の娘」である! (コンペイトウ書房)

think31への応答

http://d.hatena.ne.jp/eaglegoto/20101119/1290156568
うち(芸音音楽アカデミー)で地域の高齢者にカラオケを教えている母親の口癖は「音楽は数学だからね」である。どういう意味かは、息子である私にもよく分からないのだが、要するに音楽は数学のように明晰に割り切れる理論を元にできていると言いたいのだろうか。だとすれば、うちの母親の主張は、典型的な主知主義的倒錯(アマチュア・ミュージシャンが陥りやすいとされる)だ。
息子である私は、音楽は数学のように割り切れるものではないと思っている。それは鑑賞者=知覚する主体の側からしてもそうだし、演奏する側からしてもそうだ。「割り切れぬ」領域、調律の狂ったピアノ、奇妙なリズム等で私の音楽は出来ている。
後藤さんはチャーリー・パーカーとその模倣者の例を挙げている。パーカー模倣者は、帰納し、次いで演繹したのだろうか? 私はよく分からない。無数にいるパーカー派サックス奏者は、パーカーの音楽を理論に還元し、そこから演繹して自己の音楽を紡いだのだろうか? 私にはそこまで言い切る確信はない。だが、ソニー・クリス等を聴いて研究すべきところではあろう。
ただ、一つ思うのは、パーカーの模倣者の誰一人パーカーを超えられなかったというのは、価値判断、言い換えれば批評家としての後藤さんの断言なのであって、客観的な事実というか、自明な事としてあるわけではない。パーカーの偉大さは認めつつ、パーカーよりマクリーンのほうが好きだという人がいてもおかしくない。趣味嗜好の領域であろう。
もっと言いたいことはあるが、また後日頭を冷やして考えることにして、ここで一旦送る。

Zoot Sims' Party

ズート・シムズ・パーティー

ズート・シムズ・パーティー

上記2作はJimmy Rowles(pf)が渋い良い味を出している。

なかなか大変

この掲示板で言及される本を追うだけでも、なかなか大変です。後藤さんが紹介してくださった、小泉文夫とローマン・ヤーコブソンの本を予約しました。脳科学については、山本貴光という人の『心脳問題』を予約しました。後藤さんが挙げておられた『ユーザー・イリュージョン』は図書館にありませんでした。その他、高橋悠治の近著なども予約しました。
ジャック・アタリの『ノイズ』、読んでみましたが、翻訳が悪いのか、原著がそもそも難解なのか、私の理解力が劣っているのか、よく分かりませんでした。ジャズについては、フリージャズ運動の失敗について言及されていますが。モーツァルトショパンが貧窮していたということはよく伝わってきました。音楽家の地位が、一方では売春婦や乞食と同列に置かれ貶められていたこと、他方祭司と同じ聖なるものとも看做されていたこと、つまり両価的だったことなどは面白い議論だと思いましたが。

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

ノイズ―音楽/貨幣/雑音

ノイズ―音楽/貨幣/雑音

等価と比較不能

後藤さん記:

等価というより、比較不能ですね。まあ、あそこでは、世間ではハイカルチャーサブカルチャーを必要以上に上下関係で見るようなので、そんなことは無いんだよ、と言いたかったわけです。

thinkを読んだ時、私が連想したのは、ポストモダン期の吉本隆明の、『資本論』と『窓ぎわのトットちゃん』を同じ平面で読む、といういささか挑発的な物言いでした。
吉本隆明におけるハイカルチャーサブカルチャーの関係はもうちょっと複雑なのですが。彼はサブカルチャーの大家達(例えば椎名誠栗本薫)を「向こう側の巨匠」と呼び、一定評価します。他方、ハイカルチャー的なもの、例えば純文学(古井由吉のような)もそれとして評価します。著作においても、ハイカルチャー(哲学や現代音楽など)は『ハイ・イメージ論』で、サブカルチャー(漫画など)は『マス・イメージ論』で論じています。ただ問題は、『ハイ・イメージ論』のライプニッツ論やジョン・ケージ論が意味不明なことです(笑)。

Lambert, Hendricks & Ross / Sing A Song Of Basie

シング・ア・ソング・オブ・ベイシー

シング・ア・ソング・オブ・ベイシー

Mal Waldron / Yosuke Yamashita / Piano Duo Live At Pit Inn

PIANO DUO

PIANO DUO

コミュニティの概念

コミュニティが伝統なり民族だけを基盤にするのかというのは考えてみるべきです。そもそも我々が、日本に生きていながらにしてジャズを愛好しているという奇妙なコミュニティです。グローバル化は伝統的共同体を崩壊の危機に曝すかもしれませんが、代わりに新たなコミュニティを生む可能性があります。インターネットなり、もっと広義に言えば複製技術を基盤とした、伝播、模倣による絆の創出です。
「共通なもの」「共同のもの」「共にあること」…が再び問い直されつつあります。政治の領域でもそうですが、音楽など文化の領域でもそうです。文化は一人だけでは成り立たない。複数の人が共同するから、成り立つのです。その意味で、インターネットであれ新しい技術であれ、従来の伝統的共同体を危機に曝すと共に、新たな別の共同性の構築の可能性を開いていると言えます。
ジャズではありませんが、以下のような例があります。
http://black.ap.teacup.com/fukashinogakuin/

グローバル化とそれへの抵抗、反動

netjazzさん記:

私はそもそも“ヨーロッパ”、“バリ”、“日本”などのコミュニティの概念が希薄になるのではなかと考えます。それはネットの普及や音楽の商業的側面の崩壊による社会状況の変化は関係がありますね。「あらゆる音楽、音のあらゆる組織化は、共同体、総体性を創造し、あるいは揺るぎないものとするための道具に他ならない。」p8 ・・・こんな文章をネット上で拾いました。この共同体の意識が崩壊しつつある、あるいは、既に社会によっては崩壊しているわけです。
具体的にいえば、バリや日本の若者で、本来、伝統に従えばガムランの楽器(名前は知りませんが)や篳篥(しちりき)を持つべき若者が、ネットで世界のあらゆる時代の音楽に触れたとします。そのとき彼らは所属する共同体の音楽を脱することになるかもしれません。そこで彼らに脱神話や共同体の価値などのイデオロギーを吹き込むこと自体、無意味なことです。でも、これは同時に脱神話を達成しているともいえます。伝統、音楽教育、音楽批評、商業主義、経済的要因などに縛られずに、音楽を聴き、演奏する自由が与えられるわけですから。

私にはnetjazzさんの論旨は、グローバル化を手放しで礼賛し、ヨーロッパ起源のクラシックや、アメリカ起源のジャズ等が世界制覇すると無邪気に語っているように思えます。しかし、それが望ましいとは思わないし、そうはならないのではないでしょうか。
それはグローバル化に対する局所的(ローカル)な抵抗なり反動があるからだけではなく、グローバル化自身が複雑な現象で、多様な効果をもたらし得るからです。
私は、東洋人が西洋文化を模倣するのは自分らが劣っていることを認めた証拠だ、というような、アルトゥール・ルービンシュタインガブリエル・タルドの議論を思い出します。実際には、優劣ではなく、模倣可能性なり、合理性(この概念には注意すべきですが)などの理由によるのです。
インターネットで(具体的にはYoutubeで、ということでしょうか)世界中の音楽に触れられるという、高度に資本主義的なグローバル化は、様々な帰結をもたらし得ると予測されます。例えば、これまでであれば死滅していた筈の音楽が、復活したり、無限に反復されて蘇るということも考えられます。インターネットで自由に音源がダウンロードできるという現象は、レコード、CDなどの複製技術の延長線上に考えることができます。その技術の発展がどのような社会を実現するのかは、まだ分からないのです。

テオドール・アドルノ / 音楽社会学序説

音楽社会学序説 (平凡社ライブラリー)

音楽社会学序説 (平凡社ライブラリー)

アドルノはジャズには手厳しいが、傾聴すべき点も多いように思われる。

McCoy Tyner / Time For Tyner

タイム・フォー・タイナー

タイム・フォー・タイナー

読みたい本

Bodies That Matter (Routledge Classics)

Bodies That Matter (Routledge Classics)

Homos

Homos

ないものねだりよりあるもの探し

私は会社に入ったことはないし、これからも入ることはないと思われる。年齢的な限界ももう超えた。今後、少ない収入でどう生活していくかが、そしてそれだけが課題である。
ないものねだりよりあるもの探し。というが、その精神で行くしかない。欲しいと思えば何でも欲しいものだ。だが我慢する。買わない。そうしなければ、生活できない。
しょうもない状況だとは思うが、如何ともし難い。