首相官邸から送られてきた。

KAN−FULL BLOG
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☆<KAN−FULL TV>:
「APEC 菅議長 成果報告」
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「APEC終了 〜農業再生、待ったなし!」
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クィア学会問題とパレーシア

ミシェル・フーコープラトン読解を通じて、パレーシア=「真実を語ること」の概念を軸に、現代日本におけるパレーシアの可能性について、ひびのまことさん(id:hippie)のクィア学会での発表に関連して論じた。Ustream配信した先程の哲学講演で。
カントは『啓蒙とは何か』で、啓蒙とは、人間が自ら招いた未成年状態から抜け出すことだと述べている。未成年状態の例として、(1)本、(2)司牧、(3)医者への依存が語られ、それぞれ『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』に対応するとフーコーは述べている。
「敢えて賢かれ」=理性(知性)を公的に使用する勇気を持て、というのが啓蒙の標語だとカントは述べている。
フーコーは、カントの時代から、一挙に古代ギリシアに遡行し、そこでギリシア悲劇プラトン等の言説のうちにパレーシアを探っていく。
これは一見、唐突なようだが、哲学の本来的な営み、つまり語ること、それも公的に語ることというパフォーマンスが問題であるという点で共通している。それ自身は非政治的な哲学が、真理を語るパレーシアの営みによって政治的リスクに身を晒すということ、それが西欧において繰り返されてきた。フーコーが、ガリレオに言及しているのも偶然ではない。それ自身は政治的ではないが、政治権力と緊張関係を持って対峙し、敢えて挑発的に真実を語っていくというパフォーマンスが「哲学すること」の意味なのだからだ。
プラトンが僭主に正義を説いて僭主の怒りを買い、奴隷として売り飛ばされたり、僭主が以前の支配者を侮蔑するような冗談を言った時、或る人が、皆の笑いに同ぜず、あなたが権力者になれたのも彼のお蔭でしょう、とツッコミを入れたり、そういうのがフーコーの挙げるパレーシアの例である。そして勿論、ソクラテスソクラテスの哲学自体は政治的ではないが、しかし、彼が知を愛し求めるそのこと自体が「政治的に危険な事柄」となり、最終的に彼は処刑される。フーコーによれば、パレーシアを遂行する人とは、真実を語るのに死を覚悟する人のことである。
その文脈で言えば、ジュディス・バトラーのベルリンでの受賞拒否は、そのこと自体で彼女がリスクを負うということではなかったかもしれないが、敢えて真実を語る、理性を公的に使用するという意味でパレーシア的である。彼女は、賞に関わっている人間に、人種差別等に関わっている人がいるという理由で、受賞を拒否したのだから。
そして、そのバトラーを称賛する人が、クィア学会のパネルで伏見憲明さんを明示的・公開的に批判せず、その理由を「家族の安全のため」としていることは、非パレーシア的である。何故ならその人は、私的な事柄を理由に、自らの理性を公的に使用し、批判的なパフォーマンスをするのを控えたのだから。

と、ここまで書いて、一つの問題系に思い至った。それは、クローゼットとカムアウトという、(今は古いと言われるかもしれない)ゲイ・アイデンティティに関わる問題系である。
例えば自らをゲイであるとカムアウトすることは、真実を語る戦略的で政治的な営為ではないのだろうか? それも現代的なありようでの「自己への気遣い」のone of themなのでは? フーコーは、脱アイデンティティを唱え、精神分析の営みの起源を司牧権力に見、「告白」を拒否するが、しかしそのことによって、カムアウトの持つ真理顕現的な=壊乱的な側面を見落としているのではないか? 「性は大したことではない」と語るのは良いが、その大したことはない、なんでもないものでしかない性が実は、生存の大きな掛け金になっている可能性はないのか?
真理(真理を語る営み)と自己との関係性を「気遣う」フーコーは、古代ギリシアに遡行せずとも、すぐそこに、すぐ隣りに、例えば現代アメリカに、カムアウトの政治なり倫理を見ることはできなかったのか。(性的少数者の一例として挙げるが)例えば男性同性愛者として公に発言することは、戦略的・政治的にパレーシアの意味を担い得る場合もあるのではないか?
私は、クィア政治から「一歩後退」してクローゼットとカムアウトの問題系からもフーコー的パレーシアを考えてみたいと思う。

Al Haig / Duke 'N' Bird

デューク&バード(紙)

デューク&バード(紙)

Duke N Bird (Jewl)

Duke N Bird (Jewl)

Claud Williamson Trio With Bill Crow And David Jones / Autumn In New York

ニューヨークの秋(紙ジャケット仕様)

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ニューヨークの秋(紙ジャケット仕様)

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Oscar Peterson / Tenderly

テンダリー(紙ジャケット仕様)

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独断論と懐疑論

古代哲学、特にヘレニズム期の哲学を規定する二大流派は、独断論懐疑論である。ストア派エピクロス派も独断論に入る。古代哲学の文脈では、独断論とは何らかの真理が知り得るとする立場であり、懐疑論とはそれを疑う(判断停止する)立場である。
昨日のUstreamでも言及したが、ドゥルーズ独断論的(ストア派的)なのに対し、フーコー懐疑論的である。彼は自分は懐疑派的であると述べて、これまで歴史的に存在したどんな懐疑論者も、懐疑をとことん徹底しなかったのが不満だと述べている。それは古代懐疑論も、或いはデカルトの懐疑も含めて、ということである。
フーコーには膨大な著書があるが、基本的なテーマはシンプルである。医学の知と権力に対して懐疑的な姿勢を取る、ということなのである。『狂気の歴史』、『臨床医学の誕生』、そして精神分析フロイト)批判を含意した『知への意志』。勿論フーコーは、臨床医学なり精神医学、精神分析を全否定するわけではない。フーコーは、「反精神医学」(R.D.レインやデイヴィッド・クーパーのような)でも「反精神分析」(ドゥルーズ=ガタリのような)でもない。脱医療を唱えたイリイチとも若干異なっている。彼は医学の知=権力が自己に作用するのを停止するのである。古代懐疑論フッサール現象学に近い、判断停止=エポケーの態度、括弧に入れる態度を取る。そして、精神医学、臨床医学精神分析学の知と実践を吟味するのである。
フーコーが「医者」の主題系を執拗に追求する様は、『自己と他者の統治』でカントの『啓蒙とは何か』で人間の未成年状態の一つとして「医者」への依存を挙げたことからも明らかである。そして、決して牽強付会ではないと思うが、そのようなフーコーの姿勢は次のようなマックス・ヴェーバーの言葉と響き合うものを持っている。

ある規範に従うか否かを決定するに当たって、「規範の遵守が、どれだけ精神的な健康の犠牲を要求しているかを計算すること、また、自分の行うべき倫理的行動の価値がその犠牲に値するものかどうかを決定する権威として精神科の医者を認めることは、人間的品位をおとしめるものである(たしかにヴェーバーは、いちばん苦しい時期にも、神に祈ることさえ断りました──山之内)。精神のドラマに属する問題を、結局は衛生学的治療の対象へと還元してしまう精神分析学の方法には、俗物的と呼ぶほかない思考が潜在している」。(山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』p138)

Oscar Peterson Trio / Nigerian Marketplace

ナイジェリアン・マーケット・プレイス(紙ジャケット仕様)

ナイジェリアン・マーケット・プレイス(紙ジャケット仕様)

咲が丘サーガ

てらおストアに行ってきた。てらおは立地条件は悪いが、商品が格安なので、いつも激混みで、行列ができている。今日もそうだった。買い物して、帰ってきた。買ってきた豆乳を飲んだが、美味しい。

Red Garland Trio / Groovin' Red

グルーヴィン・レッド

グルーヴィン・レッド

Duke Ellington and Johnny Hodges play the blues: Back To Back

バック・トゥ・バック

バック・トゥ・バック

中野振一郎 / 優しい恋わずらい

優しい恋わずらい~ヴェルサイユの音楽

優しい恋わずらい~ヴェルサイユの音楽

ルネ・デカルト

後藤さん(id:eaglegoto)記:

主知主義の元祖デカルトの「我思う故に我あり」の、前段の「われ」と後段の「われ」は同じものとは思えないのも当然ですよね。
詳細は攝津さん説明してください、って、無責任か・・・

デカルトの「我思う故に我あり」は確か『方法叙説』の表現で、ラテン語で書かれた『省察』のほうでは「私は考える、私はある」と並列になっていたと思います。「故に(donc)」と接続されていないんですね。だから、デカルト研究者の間では、デカルトのコギトは論理的推論ではなく、「事実」を言い表したものだと考えているようです。

ところで、ドゥルーズによるカント解釈では、カントはデカルト的な「瞬間的」なコギトではなく、「私」の成立に「時間性」を導入したとされているようです(『差異と反復』)。英語で言えばI(主格)とme(目的格)の区別を導入し、後者、つまり、規定される私が、規定する私によって考えられる。そこに(0.5秒とか具体的な時間ではないけれど)「私」の亀裂、ひび割れがある。その亀裂、ひび割れとは時間性である、という議論です。
ハイデガーがカント解釈で提出した自己触発という概念がそれですが、通常の知覚なり認識では、物が主観を触発し、与えられた感性的質料を悟性が範疇を通じて認識して、知覚なり認識が生まれる。ところが、主観が主観自身を考える時には、私自身が私を触発する、ということです。
カントの公式的解釈では、時間、空間は先天的な直観形式ですが、ハイデガードゥルーズのように考えると、時間性そのものの発生を問うことができる可能性が生まれる。それを問う場というのは、超越論的構想力(想像力)です。

後藤さんの議論に戻って言えば、

主知主義の元祖デカルトの「我思う故に我あり」の、前段の「われ」と後段の「われ」は同じものとは思えないのも当然ですよね。

デカルトは<前段の「われ」と後段の「われ」は同じもの>と考えていたと思います。カントに至って、規定する私(主格)と規定される私(目的格)の区別が生じ、(超越論的にですが)時間性が導入されます。デカルトにおいてはコギトは本来的に「瞬間的」に成立するものだったのですが、カントにおいて、根源的な「遅れ」というか「時間性」、ズレ、亀裂が導入されます。

それを脳科学にどう繋げればいいのか、ちょっと分かりませんが、私も勉強してみます。

高橋悠治

netjazzさん記:

高橋さんは“音楽について文章を書く”ということが“言葉の無駄”じゃないかといっているようです。

それはおかしいです。では、高橋悠治自身が音楽について膨大に書いている事実はどうなるんですか。まさか、自分だけは例外なんて議論は許されないでしょう。

コメント

以下を「いーぐる後藤の新ジャズ日記」(id:eaglegoto)に投稿した。
どうも名前を挙げていただいてありがとうございます。ただ、私は大学からの落ち零れで、哲学の専門家とは到底言えません。素人考えに過ぎません。それで良ければ、今後ともお付き合いいただければ幸いです。
ジャズを考察した理論的(原理的)文章が無いというのは世界的にそう言えると思います。まず、フーコードゥルーズはジャズを全く論じていません。彼らにとって最高の音楽は、ピエール・ブーレーズでした。ジャズを哲学的に考察した文章は世界的に皆無と言っていいように思います。ジャック・デリダオーネット・コールマンと対談したそうですが(未読)、議論が噛み合っていなかったそうです。
そういうわけで、ジャズについて網羅的、一般的に考察した本というのは、後藤さんはお嫌いかもしれませんが、菊地成孔の一連の著作くらいしかないように思います。他には『ニュー・ジャズ・スタディーズ』というのがあるそうですが、未読で、図書館にもありません。
ジャズについて真剣に考えているのは、ジャズ・ミュージシャン、批評家、聴衆(ファン)だけであるようにみえます。心許無い状況ですが、少しずつでも前に進んでいくしかないかな、と思います。

補足ですが、ジャズを論じたものとして、平岡正明のパーカー論やマイルス論がある、と思います。「哲学的」「原理的」と言えるかどうかは分かりませんが。

コレギウム・ムジクム・テレマン(中野振一郎) / 組曲「昔と今の諸国の人々」

コレギウム・ムジクム・テレマン: 昔と今の諸国の人々

コレギウム・ムジクム・テレマン: 昔と今の諸国の人々

文化人=プレカリアート

いーぐる掲示板で紹介されていた、ジャック・アタリの『ノイズ』はさっぱり分からなかったのだが(翻訳のせいなのか、もともと難解なのかは判断しかねる)、モーツァルトショパンが酷い貧窮状態に置かれていたということは伝わってくる。
音楽の歴史でいえば、大体モーツァルトくらいまでが宮廷に仕えて生活するという感じ、ベートーヴェンが、貴族から独立し、市民音楽家の道を切り開いたという感じなのだが。ショパンが貧窮していたというのは、リストと違ってコンサートの仕事が余り無く、レッスンをしたりして喰っていたということだ。
それで思ったのだが、近代において文化に携わる人間一般が不安定な生活を強いられていた=プレカリアートであったということだ。
それは哲学者にも言える。哲学史を見れば、カント以降、哲学者の多くは大学教授として国家公務員になる。だが、それにしても、現代でいえば非常勤講師みたいなもので、生活は不安定、金持ちの子弟の家庭教師などをして喰い繋がねばならなかった。カントより前の哲学者ら、デカルトスピノザライプニッツらは、家の財産を喰い潰すか、パトロンに援助されて生活していた。音楽史でいえば、宮廷音楽家みたいなものかな。そして、仕えている宮廷から無理を言われて死んだりとか。ちなみに、スピノザがレンズ磨き労働で生計を立てていたというのは嘘だからね。ルソーが写譜の仕事で生計を立てていたというのは事実。
まあ、文化で喰おうという人間が不安定な生活を強いられるというのは、今に始まった話ではないということだ。