独断論と懐疑論

古代哲学、特にヘレニズム期の哲学を規定する二大流派は、独断論懐疑論である。ストア派エピクロス派も独断論に入る。古代哲学の文脈では、独断論とは何らかの真理が知り得るとする立場であり、懐疑論とはそれを疑う(判断停止する)立場である。
昨日のUstreamでも言及したが、ドゥルーズ独断論的(ストア派的)なのに対し、フーコー懐疑論的である。彼は自分は懐疑派的であると述べて、これまで歴史的に存在したどんな懐疑論者も、懐疑をとことん徹底しなかったのが不満だと述べている。それは古代懐疑論も、或いはデカルトの懐疑も含めて、ということである。
フーコーには膨大な著書があるが、基本的なテーマはシンプルである。医学の知と権力に対して懐疑的な姿勢を取る、ということなのである。『狂気の歴史』、『臨床医学の誕生』、そして精神分析フロイト)批判を含意した『知への意志』。勿論フーコーは、臨床医学なり精神医学、精神分析を全否定するわけではない。フーコーは、「反精神医学」(R.D.レインやデイヴィッド・クーパーのような)でも「反精神分析」(ドゥルーズ=ガタリのような)でもない。脱医療を唱えたイリイチとも若干異なっている。彼は医学の知=権力が自己に作用するのを停止するのである。古代懐疑論フッサール現象学に近い、判断停止=エポケーの態度、括弧に入れる態度を取る。そして、精神医学、臨床医学精神分析学の知と実践を吟味するのである。
フーコーが「医者」の主題系を執拗に追求する様は、『自己と他者の統治』でカントの『啓蒙とは何か』で人間の未成年状態の一つとして「医者」への依存を挙げたことからも明らかである。そして、決して牽強付会ではないと思うが、そのようなフーコーの姿勢は次のようなマックス・ヴェーバーの言葉と響き合うものを持っている。

ある規範に従うか否かを決定するに当たって、「規範の遵守が、どれだけ精神的な健康の犠牲を要求しているかを計算すること、また、自分の行うべき倫理的行動の価値がその犠牲に値するものかどうかを決定する権威として精神科の医者を認めることは、人間的品位をおとしめるものである(たしかにヴェーバーは、いちばん苦しい時期にも、神に祈ることさえ断りました──山之内)。精神のドラマに属する問題を、結局は衛生学的治療の対象へと還元してしまう精神分析学の方法には、俗物的と呼ぶほかない思考が潜在している」。(山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』p138)