ルネ・デカルト

後藤さん(id:eaglegoto)記:

主知主義の元祖デカルトの「我思う故に我あり」の、前段の「われ」と後段の「われ」は同じものとは思えないのも当然ですよね。
詳細は攝津さん説明してください、って、無責任か・・・

デカルトの「我思う故に我あり」は確か『方法叙説』の表現で、ラテン語で書かれた『省察』のほうでは「私は考える、私はある」と並列になっていたと思います。「故に(donc)」と接続されていないんですね。だから、デカルト研究者の間では、デカルトのコギトは論理的推論ではなく、「事実」を言い表したものだと考えているようです。

ところで、ドゥルーズによるカント解釈では、カントはデカルト的な「瞬間的」なコギトではなく、「私」の成立に「時間性」を導入したとされているようです(『差異と反復』)。英語で言えばI(主格)とme(目的格)の区別を導入し、後者、つまり、規定される私が、規定する私によって考えられる。そこに(0.5秒とか具体的な時間ではないけれど)「私」の亀裂、ひび割れがある。その亀裂、ひび割れとは時間性である、という議論です。
ハイデガーがカント解釈で提出した自己触発という概念がそれですが、通常の知覚なり認識では、物が主観を触発し、与えられた感性的質料を悟性が範疇を通じて認識して、知覚なり認識が生まれる。ところが、主観が主観自身を考える時には、私自身が私を触発する、ということです。
カントの公式的解釈では、時間、空間は先天的な直観形式ですが、ハイデガードゥルーズのように考えると、時間性そのものの発生を問うことができる可能性が生まれる。それを問う場というのは、超越論的構想力(想像力)です。

後藤さんの議論に戻って言えば、

主知主義の元祖デカルトの「我思う故に我あり」の、前段の「われ」と後段の「われ」は同じものとは思えないのも当然ですよね。

デカルトは<前段の「われ」と後段の「われ」は同じもの>と考えていたと思います。カントに至って、規定する私(主格)と規定される私(目的格)の区別が生じ、(超越論的にですが)時間性が導入されます。デカルトにおいてはコギトは本来的に「瞬間的」に成立するものだったのですが、カントにおいて、根源的な「遅れ」というか「時間性」、ズレ、亀裂が導入されます。

それを脳科学にどう繋げればいいのか、ちょっと分かりませんが、私も勉強してみます。