グローバル化とそれへの抵抗、反動

netjazzさん記:

私はそもそも“ヨーロッパ”、“バリ”、“日本”などのコミュニティの概念が希薄になるのではなかと考えます。それはネットの普及や音楽の商業的側面の崩壊による社会状況の変化は関係がありますね。「あらゆる音楽、音のあらゆる組織化は、共同体、総体性を創造し、あるいは揺るぎないものとするための道具に他ならない。」p8 ・・・こんな文章をネット上で拾いました。この共同体の意識が崩壊しつつある、あるいは、既に社会によっては崩壊しているわけです。
具体的にいえば、バリや日本の若者で、本来、伝統に従えばガムランの楽器(名前は知りませんが)や篳篥(しちりき)を持つべき若者が、ネットで世界のあらゆる時代の音楽に触れたとします。そのとき彼らは所属する共同体の音楽を脱することになるかもしれません。そこで彼らに脱神話や共同体の価値などのイデオロギーを吹き込むこと自体、無意味なことです。でも、これは同時に脱神話を達成しているともいえます。伝統、音楽教育、音楽批評、商業主義、経済的要因などに縛られずに、音楽を聴き、演奏する自由が与えられるわけですから。

私にはnetjazzさんの論旨は、グローバル化を手放しで礼賛し、ヨーロッパ起源のクラシックや、アメリカ起源のジャズ等が世界制覇すると無邪気に語っているように思えます。しかし、それが望ましいとは思わないし、そうはならないのではないでしょうか。
それはグローバル化に対する局所的(ローカル)な抵抗なり反動があるからだけではなく、グローバル化自身が複雑な現象で、多様な効果をもたらし得るからです。
私は、東洋人が西洋文化を模倣するのは自分らが劣っていることを認めた証拠だ、というような、アルトゥール・ルービンシュタインガブリエル・タルドの議論を思い出します。実際には、優劣ではなく、模倣可能性なり、合理性(この概念には注意すべきですが)などの理由によるのです。
インターネットで(具体的にはYoutubeで、ということでしょうか)世界中の音楽に触れられるという、高度に資本主義的なグローバル化は、様々な帰結をもたらし得ると予測されます。例えば、これまでであれば死滅していた筈の音楽が、復活したり、無限に反復されて蘇るということも考えられます。インターネットで自由に音源がダウンロードできるという現象は、レコード、CDなどの複製技術の延長線上に考えることができます。その技術の発展がどのような社会を実現するのかは、まだ分からないのです。