近況アップデート

状況を整理しておきましょう。『瓜売小僧』において木川田くん、木川田源一は高校2年生です。彼が同性愛者であることは学校でばれてしまっており、他の生徒から毎日嘲笑されてしまっています。彼はバスケットボール部の一年年上の先輩、滝上圭介という人に恋愛感情を持っていますが、それが実るはずもありません。先回りして申し上げておけば、シリーズの最後の本、『雨の温州蜜柑姫』で最終的に木川田くんはその先輩への恋愛を断念してしまいます。それはともかく、一年後輩の男の子がいます。井関純也という名前です。その後輩が木川田くんに手紙を出して告白するので、付き合ってみることにします。その手紙には、「僕も木川田さんのような自由な生き方がしたいのです。どうぞ僕に力を貸して下さい」とか「もうこんな意気地のない僕はイヤなんです」などと書いてあります。だから木川田くんは、少しは前向きに生きる気があるのかとか思ったわけですが、しかし、別にそういうわけでもありません。

木川田くんは彼の先輩に対する恋愛を「もっと崇高」なものと考えています。だから後輩がオカマ丸出しでべたついてくるのが不愉快に感じます。もちろん彼の先輩との関係はプラトニックなもので、後輩との関係はそうではありません。そこに違いがありますが、木川田くんにはそのことが分かりません。分かっていたとしても、受け入れる気がそもそもありません。

後輩の井関くんが木川田くんの家に泊まりにきて、二人はセックスをしますが、けれども木川田くんは不快です。井関くんが木川田くんのことを気安く「お兄ちゃん」などと馴れ馴れしく呼ぶからです。木川田くんも先輩、滝上さんに「お兄ちゃん」とかいって甘えたいのですが、我慢しています。そういう気持ちが分からない井関くんを疎ましいと感じてしまいます。

けれども、二人がセックスしている現場を木川田くんの親が目撃してしまいます。そういうわけで、ちょっとひどいのではないかと思ってしまいますが、木川田くんの父親は木川田くんを精神科に連れていってしまい、「治療」してもらおうとします。木川田くんの父親は鉛管関係の会社に勤務するサラリーマンです。

木川田くんの父親は木川田くんに「お前、この先どうするんだ」とか「お前、これからも生きていけるのか?」とか訊きます。同性愛者だというだけで、先がない、「その後の人生」がない、生きていけない、それが1970年代後半の日本の大人の一般的な意識であったということでしょう。それはもちろん残酷なことだとは思います。けれども実際、当時の日本社会はそういう雰囲気であったのでしょう。

さて、木川田くんの父親は彼を精神科に連れていきますが、精神科医から、現代で同性愛は異常ではないとかいわれてしまいます。それでこういうことになります。「何を言ってるんだ! お父さんは何もお前を変態なんかにする為に毎ン日会社へ通ってたんじゃないんだ! それを、父の不在だとかもう、言いたい放題言って、あの医者は過激派崩れに決ってるんだ。一遍投書でもしてやった方がいい」(p.232)

短篇の最後にどんでん返しがあります。高校生の木川田くんが二丁目で出会ってセックスをしたどうしようもない同性愛の中年男がいます。誰彼構わず若い人を、死んだ弟に瓜二つだなどといって(実際にはまるで似ていないのに)追い回すようなしょうもない人です。その人が、木川田くんと先輩の滝上さんがいるところに現れます。木川田くんの父親も現れますが、なんとその中年男は木川田くんの父親が仕事で付き合いがある偉い人だったのです。そのことに木川田くんは腹を立ててこう思います。「ホントにもう、なんだこの、バカヤロオ、テメエは自分の息子の体売って喰いつないでんのかよオ! 何が苦労だアッ、もうもう死んじまえエ! この変態ッ!誰が手前エなんかに先輩渡すかア! 何が仕事だア! そうやってねちっこくヤラシク生きてオッチンじまえ! もうなア、もうなア、日本なんかおしまいだよオ! いいかア、見てろオ、テメエらなんか目茶苦茶にしてやっからなア!」(p.245)とのことですが、なるほどそのように木川田くんが怒ってしまうのも致し方がないことだと感じます。

この小説の終わりはこうです。「やっぱり俺、やっぱり俺、先輩の後ついてく。だって、俺先輩大好きだもん。そんで、そんで、俺いつか先輩と、結婚すんだ。ネ、先輩、結婚してネ、ネッ。」もちろんそれは木川田くんが一方的にそのように夢想しているというだけのことで、一緒にいる先輩の滝上さんに伝わるはずもありません。だから滝上さんの反応はただ「ン?」というようなものです。木川田くんにもそのことは分かっています。「チェッ、分ってねえの、ナハハハ……」という彼の独白でこの小説は幕を閉じます。

シリーズ最終巻の『雨の温州蜜柑姫』(講談社文庫)で木川田くんは滝上さんへの恋愛を断念してしまいます。そのことを作者はこう解説しています(p.370)。「木川田くんはそのことにやっぱし気がついていて、自分の極端な世界観を少し改めようとしていた。それはもうほとんど"自分の好きな人"という概念が死滅してしまった核戦争後の未来に生きるようなもんで、"一番好きな人"という世界を中心で支える概念が死滅してしまった以上、世界の枠組を変えるしかない。「神は死んだ!」と言ってニーチェは発狂してしまったが、木川田くんは「じゃァどうしようかなァ」と言っているのだから、中心喪失の時代に生きるという点でいえば、木川田源一はフリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェよりはえらかった。」──もちろん私はそう思いませんが、橋本治がそのように言いたくなるくらいの気持ちであったということだけは分かります。ヨーロッパ人でもなくキリスト教徒でもない橋本治や木川田くんには神が死んだかどうかというのははっきりいってどうでもいいようなくだらない問題だったでしょうが、自分の一番好きな人を断念する、諦めるというのはなるほど「中心喪失」とか言いたくなるようなことであったのかもしれません。ちなみにこの時点で木川田くんは20歳で、デザイン学校で服飾を学んでいます。醒井さんという女性と付き合い始めたばかりです。

この本の「第五話 港が見える温州蜜柑姫」の第八章は、「だけどもう、僕の時間は進んでしまった」と題されています。木川田くんと先輩、滝上さんが再会しますが、もう高校生のときの彼らではありません。題名のいう通り、もう彼らの時間は進んでしまっていました。木川田くんは自分の選んだ時間は進んでいってしまったと感じています。そして、自分はもう先輩に電話なんかしないかもしれない、というふうに考えます。ちなみにヘーゲルの円環(循環)や大江健三郎の『懐かしい年への手紙』などと比べてしまうべきではないでしょうが、この小説も、「もう一遍初めから全部を始める為に。 / もう一度、確信を持って自分自身に出会う為に。」と結ばれています。しかしながら、感動的な場面に冷水を浴びせるようで恐縮ですが、客観的にいえば、「もう一遍初めから全部を始める」ということは誰にもできません。それは想像の世界でしかありません。木川田くんにしても、彼の悲惨な高校時代を反復したり繰り返したりやり直すことは絶対にできません。そういうしかないと思います。