近況アップデート

私にはよく分かりませんが、橋本治がそのような意地悪なことを書いたというのには彼なりの動機とか必然性があったのではあろうと思います。けれどもそれが他者(読者)にはよく伝わってきません。当時の『薔薇族』とか現実の同性愛の人々が厭だったのだろうな、ということしか分かりません。現在では『薔薇族』は廃刊しているし、『Badi』はあるとしても基本的に同性愛の人々はインターネットで恋愛やセックスの出会いを探していると思いますが、2012年現在のゲイサイトの掲示板を見ても橋本治は同じようなことを考え同じようなことを言うのではないでしょうか。人間のあり方、人間類型が長期的にみて変化するということは十分あり得ますが、たかが数十年ですっかり変わってしまうとかいうことはあり得ないだろうと思います。

私は橋本治が自慢していうほど彼の『蓮と刀』とか『秘本世界生玉子』が素晴らしいものだと思いません。『極楽迄ハ何哩』(徳間文庫)の解説で中森明夫が、かつての吉本隆明と現在の(といっても、1980年代当時の話です)橋本治が似ていると書いていますが、挫折してしまった人々(読者)に漠然と慰めを与えるという機能において似ているというよりも、何の合理的な理由もなく勝手に主観的に勝利宣言をしてしまうというような体質が非常に類似していると感じます。

エピステーメーフーコー)というのはただ単に知の枠組みのなかでの問題です。他方、人間類型(ニーチェ)とか集団的主観性(ガタリ)になりますと、具体的に生きている人々のありようという話ですから、或る日或るときに激変してしまうというようなことはあり得ないわけです。ただ、例えば、エイズ禍がアメリカの、そして世界中のゲイコミュニティを短期間で急速に変えてしまったというようなことならあったでしょう。同性愛の問題を離れれば、例えばソ連や共産圏の崩壊、例えば湾岸戦争、例えば9.11、例えばイラク戦争、例えば3.11などで主観性に激震が走るといったことは十分あり得ます。

橋本治に戻れば彼が作り出したキャラクターである木川田くんのことを調べてみて、ごく普通のというか、典型的な同性愛者なのではないかと感じました。とりたてて非難されるような要素は何もないと思います。そのような典型である木川田くんをその後の人生がないと否定してしまうというのは、同性愛者一般を未来がないからと否定しているのと余り変わりません。小説を読む限り、1970年代後半を生きた木川田くんと、2012年現在を生きる我々がそう違うとは思えません。『薔薇族』がインターネットに変わったというくらいのことでしょう。さすがに同性愛が親バレしたら親から精神科に連れていかれてしまうというようなことは現在では余り聞きませんが。