近況アップデート

Ustreamでも少し話しましたが、コメントで寄せていただいたHさんからの疑問に応答したいと思います。

Hさんはヘーゲル的循環に疑問を呈されたわけですが、なるほど現実をいえば循環とか反復は想像的なものでしかあり得ないと思います。サルトルであれば、「魔術」と呼んだであろうようなものです。どんな哲学者であれ文学者であれ同じだと思います。ヘーゲルニーチェドゥルーズ大江健三郎橋本治、いずれも例外はないと思います。

例えば、大江健三郎の『懐かしい年への手紙』の最後の場面はこうです。「ギー兄さん」が残酷に殺されてしまった後で、語り手の「私」が、「ギー兄さん」と自分と、それから知的な障害がなく健やかで美しい「アカリ」(語り手の子供の障害児です)が楽しげに歓談する、という終わり方になっています。

けれども私はおかしいと思うのです。どこがおかしいかというと、障害がなく健やかで美しい「アカリ」、というところです。現実にはその語り手の子供が障害を持って生まれてきたというのは端的な事実であって、変更できないと思います。けれども「私」は想像的にそれを修正しています。もしかしてあり得たかもしれない障害のない自分の息子、といったイメージです。

「ギー兄さん」にしても現実には地元の人々と対立して殺されてしまったということは絶対に変更できません。けれども語り手の「私」はそれをなかったことにしてしまいます。

『雨の温州蜜柑姫』のラストにしても同じだと思います。初めから全部やり直すなどということは実際にはどんな人にとっても不可能です。過去がどんなに悲惨であろうとやり直したり変更してしまうことはできません。例えば木川田くんが彼の高校生活を書き換えてしまおうと思うとしてもできません。

ですから、ヘーゲルがどうであったかはよく分かりませんが、循環とか反復というのは実際には想像的なものでしかあり得ないと思います。永遠回帰すらもそうなのではないでしょうか。だからサルトルにはそれが「魔術」であると、言い換えれば欺瞞であると見えました。