保守本流

↓で保守本流ジャズギタリストは?と訊かれて何人か挙げたら、もっと新しい人をとリクエストが。だがわたしは、新しい人は知らないんだよなあ。
http://438.teacup.com/tamalunch/bbs?

チャーリー・クリスチャンは流石に古過ぎるか(笑)。だけどジャンゴ・ラインハルトとか言い出さなかっただけまだましか。
保守本流ではないけれど、ガボール・ザボという人も面白い。渡辺貞夫と共演とかしている。
日本人では渡辺香津美だが保守本流王道とはいえないような…。

辻井伸行さんに酷似

いーぐる掲示板でわたしが辻井伸行さんに似ているというネタの投稿があったが、そう感じているのはnetjazzさんやid:MosesHessさんだけでなく、植木職人にして小説家の菅原正樹さんやうちの父親、攝津孝和も、似ている、と言うのである。まあ、ピアノの腕前は向こうのほうが遥か上であることは間違いないが(笑)。

曖昧な時節のさなかで

曖昧な時節のさなかで

書かれるべきでない小説のためのエピローグ

書かれるべきでない小説のためのエピローグ

Twitterは重い

今2FのWindows2000のパソコンで、Netscape Navigatorでインターネットやっているが、Twitterが重くて重くて。他のサイトは大丈夫なんだけど、Twitterだけは重いわ。やっぱ、なかなか開けないんだねえ。まあ、深夜までTwitterをチェックせねばならん義理もないわけだが。

Duke Ellington / Billy Strayhorn / Piano Duets: Great Times!

グレート・タイムズ!

グレート・タイムズ!

芸術ダーウィニズムの定義が曖昧ですが

社会ダーウィニズムのようなものと仮定すると、よく売れたものは成功例で、売れなかったものは淘汰された失敗例とされそうですが、後に優れた芸術と認められたもので、発表当時売れなかった、認められなかったものなんて幾らでもありますよね。例えばセロニアス・モンクブルーノートの録音とか、典型的です。だから、わたしは、市場原理は芸術には完全には適用できないと述べたのです。部分的に適用される可能性は放棄していません。例えば、オスカー・ピーターソンは市場的にも適応した芸術の例でしょう。しかし、バド・パウエルはどうなのでしょう。或いは、ソニー・クラークマル・ウォルドロンは? など考えていくと、市場的価値観で割り切れないと分かります。

マッコイ・タイナー / ダブル・トリオ

ダブル・トリオズ

ダブル・トリオズ

秋吉敏子 / クラシック・エンカウンターズ

クラシック・エンカウンターズ

クラシック・エンカウンターズ

これはいいですよ!

不変項

ジャズが変容している(ポスト・モダン・ジャズ談義)、さらにその上位概念である芸術概念が変容している、より一般的な概念である「美」も変容している…とのことですが、「快」は不変項なのでしょうか。
例えば、刀で切り付けられて痛いと思わない人間はいない、という意味で快苦は不変項と言えるかもしれないですが、例えば最初セシル・テイラーを聴いても苦痛であった、しかし聴き込むうちにその良さが分かり快感に変わった、というような例もあるように思うのですが。実際、わたしは最近彼の『ジャンピン・パンキンス』を聴いて、聴き易いというか、普通に気持ち良いなと思いました。

ジャンピン・パンキンス

ジャンピン・パンキンス

これはちょっと…

横浜2人殺害の判決で、主文後回し 厳刑か 横浜地裁
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101116-00000531-san-soci

これまでの公判で検察側は、被害者のマージャン店経営の男性=当時(28)=が「せめて殺してから切断して」と命ごいしたのを無視して、生きたまま電動のこぎりで首を切断したことを指摘し、「残虐な方法で命を奪った犯行は冷酷非道」と非難。最高裁が昭和58年に示した死刑選択の基準である「永山基準」に言及し、悪質性を強調していた。弁護側は「犯行時にはためらいや葛藤(かっとう)があった」と述べていた。

生きたまま電動のこぎりで首を切断は痛そうだ。
それにしても裁判長、死刑判決を言い渡しておいて「裁判所としては控訴を勧めたい」って何それ?
裁判員裁判初の死刑判決、裁判長が控訴勧める
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101116-00000472-yom-soci

裁判員裁判初の死刑判決となった法廷で、横浜地裁の朝山裁判長は「あなたは法廷ではいかなる刑にも服すると述べているが、重大な結論ですから、裁判所としては控訴することを勧めます」と最後につけ加えた。

芸術とは何の謂いか?

いーぐる後藤雅洋さん(id:eaglegoto)、いーぐるnote2010(http://8241.teacup.com/unamas/bbs?)にて記:

感想 投稿者:後藤雅洋 投稿日:2010年11月16日(火)09時19分59秒
芸術ダーウィニズムについてよく知らないので、単なる感想ですが、現在流通している「芸術」という概念自体を精査するほうが先決ではないかと・・・

というのも、人によってこの言葉がイメージする内容にかなり違いがあるように思えるのです。また、仮に芸術概念が変容したとしても、より一般的な概念である「美」や「感動」や「快」といったものは、「芸術概念とは独立して」存続する可能性だってあるように思えるのです。

でも、「美」もまた、すでに変容していますか・・・変わらないのは「快」だけかな。


議論する際に必要なのは…

  • 自分と相手で共有している諸前提があるか、ないかを吟味する。
  • ある場合、その諸前提なり諸条件が妥当かどうかを吟味する。

このことですよね。
なので、「芸術」という概念自体を精査するという御提案に賛成です。
哲学史的には、カント(『判断力批判』)、ヘーゲル(『美学講義』)、ハイデガー(『芸術作品の根源』)、アドルノ(『美の理論』『音楽社会学』)を踏まえねばならないでしょうが、そう敷居を高くしてもアレですよね。
そういえば鶴見俊輔の『限界芸術論』というのもありましたね。岡崎乾二郎さんの勧めで以前読んだのですが、今は忘れていますが。

とりあえず【芸術性と商業性の相克】【芸術性/商業性という二項対立そのものの閉域性とその外部】みたいな話をしたいと思います。
わたしの考えでは、芸術作品というのは、いわゆる商品ではないが、何らかの価値(芸術的価値)を有するもの、だと思います。岡崎さんのように【売れ残りの商品】と言ってもいいかもしれません。或いは【廃物】とも。
芸術性と商業性は、相克する場合もあれば、相補的である場合もある。例えばベートーヴェンが貴族パトロンから自由になり、市民芸術家として自立できたのは、そうできるだけの経済的基盤があったからでした。というようなことを考えると、頭から商業性を全面否定する議論には、疑問符が付く。
しかし、いーぐる掲示板でもこのブログでも繰り返し書いているように、資本主義的市場が芸術作品の価値を決めるとも思われない。セロニアス・モンクセシル・テイラーの例を出すまでもなく、売れなくても価値があるものは確実に存在する。
他方、オスカー・ピーターソンのように、資本主義的市場にも適応的でありつつ、芸術的な価値を持っているといえるものもある。

以前岡崎さんが話してくれた話ですが(脱線ですいません)、彼がスティーヴ・レイシーのライヴに行ったら、その晩はレイシーの家族、友人等関係者も含め岡崎さん当人も含め3人しか客がいなかった。しかし、その演奏は素晴らしいものだった、ということです。
ジャズメン、特にフリージャズの人は喰えない場合が多い。しかし、それはその芸術的営為が無価値だということではありません。

パンクロックのようなものはどうか? noizさんが書いていたように、商業性も芸術性も眼中になく、やりたいという原初衝動のみでやっている、という場合もある。そして、それを芸術とカテゴライズするかどうかは別にして、その営みには意味なり価値がある、とわたしは思う。だけれども、この場合、その意味なり価値をどう語ればいいのか?

或いは(フリージャズやパンクロックとは真逆ですが)上原ひろみのような場合はどう捉えればいいのか? 彼女は売れているし、確かな演奏技術も持っている。しかし、いわゆるジャズの伝統とは(意識的に)ずれた場所に身を置いているようだ。よく言われることですが、彼女と共演しているギタリストの奏でる音は、いわゆるジャズとは少し趣が違っていますよね。しかし、それでも、彼女の演奏は、何らかの芸術的価値も商業的価値も持っていると思える。

結論は出ないですが、いろいろな事例を検討するしかない、と思います。

判断力批判 上 (岩波文庫 青 625-7)

判断力批判 上 (岩波文庫 青 625-7)

判断力批判 下 (岩波文庫 青 625-8)

判断力批判 下 (岩波文庫 青 625-8)

ヘーゲル美学講義〈上〉

ヘーゲル美学講義〈上〉

ヘーゲル美学講義〈中〉

ヘーゲル美学講義〈中〉

ヘーゲル美学講義〈下巻〉

ヘーゲル美学講義〈下巻〉

芸術作品の根源 (平凡社ライブラリー)

芸術作品の根源 (平凡社ライブラリー)

美の理論

美の理論

音楽社会学序説 (平凡社ライブラリー)

音楽社会学序説 (平凡社ライブラリー)

限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

マックス・ヴェーバーにも音楽社会学があったんだ! 発見。
音楽社会学 (経済と社会)

音楽社会学 (経済と社会)

こんな本もある。
今日の限界芸術

今日の限界芸術

これも読まないとなあ。
ニュージャズスタディーズ -ジャズ研究の新たな領域へ- (成蹊大学アジア太平洋研究センター叢書)

ニュージャズスタディーズ -ジャズ研究の新たな領域へ- (成蹊大学アジア太平洋研究センター叢書)

noizさんの音楽

http://mukofungoj.sanpal.co.jp/bando/2091/

http://mukofungoj.sanpal.co.jp/bando/2091/comment-page-1/#comment-107

noiz 10:35 on 16/011/2010
攝津さんのジャズ議論はちんぷんかんぷんながら(ジャズはほんの初心者の初心者程度でマイルス・デイヴィスジョン・コルトレーンくらいしか聞いてないから)読んでいます。いーぐるの掲示板は各人各様で読むだけで楽しいですよ。音楽(もしくは芸術、芸)と時代状況、社会認識についての考え方について多大な示唆をもらっています。

さて、ぼくらがやってるのはパンクのなかでもハードコアパンクといわれるもののうちに入ります。しかもさらにクラストパンクの範疇に入る。クラストは人によって解釈がいろいろありますが、とりあえずこんなのとか。Doom の「ナチは死ね」(YouTube)。うるさいけどちゃんと曲になってるでしょ? ぼくはこういうのがカッケエエエ〜としびれてもう20年くらい聞いているわけです(笑)。NAZI DIE!!

「クラストパンク」。知らなかったので検索してみた。

うーむ、読んでもちんぷんかんぷんだ(笑)。ジャズとパンクロックとで歴史も文脈も違うからなあ。
noizさんのバンド、VOCO PROTESTA(http://a.sanpal.co.jp/protesta/)は歌詞がエスペラント語なんだけれども、安保粉砕とか、きちんとした政治的主張を盛り込んでいる。だから「ナチは死ね」のクラストパンクの流れにある、と言われてナットク。
逆にジャズヴォーカルで、政治的な内容があるのって、マックス・ローチの『ウィ・インシスト』(マックス・ローチの奥さんのアビー・リンカーンが参加)、チャーリー・ミンガスの『ミンガス・プレゼンツ・ミンガス』の「フォーバス知事の寓話」くらいしか思いつかないなあ。マックス・ローチチャーリー・ミンガスは音楽的にも一流だったけれど、政治的にも尖鋭だったわけで。

ウイ・インシスト

ウイ・インシスト

ジャズから一気に話が飛ぶけれど、「演歌」ってもともとは演説でもあるような歌、政治的な歌のことだったんだよね。自由民権運動の歌でもあった。それがいつしか、そういう政治的な意味が全く見失われてしまった。その経緯はよく知らないんだけれども。

mukofungoj ĉiuloke

運動を辞めて、99%の友人は去っていった。まだ交流がある、本当に僅かな友人の一人であるnoizさんのブログです。わたしはnoizさんのバンド、VOCO PROTESTA(http://a.sanpal.co.jp/protesta/)の演奏を何回か聴いたけれど、素晴らしかったです。エスペラント語「安保粉砕、闘争勝利!」とか歌うの。凄いですよ。

演歌ジャズピアニスト攝津正

わたしはnutty queer free jazz pianistであるとともに演歌ジャズピアニストでもあるのだが。
演歌が、もともと自由民権運動の弁士が、自己の政治的主張の大衆化のために歌にしたものだということは何度か述べたが、現在ではその起源はすっかり忘却されている。現在、演歌と呼ばれるものに「演」歌と言うだけの何かがあるとすれば、それは演技、「演じる」歌ということだろう。うちの母親が、芸音音楽アカデミーで歌を教えたりしているのだが、生徒さんにいつも言ってるのは「歌はお芝居」ということ。例えば不倫など絶対しない貞淑なご婦人方も、恋々とした不倫の歌を歌うことはあり得るわけで。また、男が女の歌を、女が男の歌を歌うこともあるわけで。そこに演技性、パフォーマンス性が入り込む。
純粋な演歌とはいえず、歌謡曲と言うべきだろうけれど、近年では、坂本冬実/ビリー・バンバンの「また君に恋してる」、秋元順子の「愛のままで…」などは良い歌だと思った。

Love Songs~また君に恋してる~

Love Songs~また君に恋してる~

愛のままで・・・

愛のままで・・・

秋元順子は、原信夫とシャープス・アンド・フラッツと共演した盤も聴いたが、凄く良かった。ジャズシンガーとしても通用する。
スインギン

スインギン

千鳥足

http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/kyousan/1286181037/l50
ねらーらが 加勢したとて 千鳥足 莫迦であり過ぎ 空回りする
千鳥足 今日も珍説 携えて 攝津ブログを 訪れて また拒まれて すごすごと去る

放送22時から。

http://www.ustream.tv/channel/femmelets
家族からピアノ弾き過ぎ、指や腱を痛めると注意されている。20分くらいにしておけ、と。確かに1時間まるまるフリージャズピアノソロ演奏はキツいかもしれない。ほどほどにしておく必要があるのかも。

The Miles Davis Quintet / 'Round About Midnight

2ちゃんねるを集中的に読んだが

草臥れた。

等について情報収集。自分が言及されていたりする箇所を特定。

チャーリー・パーカー / ディジー・ガレスピー / セロニアス・モンク / バード・アンド・ディズ チャーリー・パーカーの真髄

バード・アンド・ディズ

バード・アンド・ディズ

バード・アンド・ディズ+3

バード・アンド・ディズ+3

不可視の学院

Twitterでちょっとした諍い(反グロ/ポストモダン)になった人のブログだが、なかなか面白い。
http://black.ap.teacup.com/fukashinogakuin/
極右と極左が見分けがつかなくなってるところの指摘とか、面白いです。
ギャングの若い子の話も。

オスカー・ピーターソン / ソロ

ソロ!!

ソロ!!

Oscar Peterson -Vol.IV My Favorite Instrument

Oscar Peterson -Vol.IV My Favorite Instrument

My Favorite Instrument

My Favorite Instrument

矢部史郎ブログ

noizさんのところから飛んでいった。
http://piratecom.blogspot.com/
最終的な思想的、政治的戦争は、「コミュニスト矢部史郎と「ファシスト外山恒一の間でなされるであろうと当の外山が言っている(笑)、その矢部史郎である。読んでみると、なかなかに面白い。

Over Capacity

だそうです。鯨さんに風船の絵。
2ちゃんねるで攝津は躁らしい、ブログの量が半端ない、って書かれてたけど、俺は月産千枚を目指す男だぜ。毎日一日中超高速で書き捲るというのは当然じゃないか!

現代の海賊

http://black.ap.teacup.com/fukashinogakuin/
http://piratecom.blogspot.com/
この2つのブログに今日、出会ったのは偶然ではない、と思えた。わたしは、ギャングでありながら音楽(ラップ)をやる移民の子供らに現代の海賊の姿を見ずにはいられないし、矢部が書くように、日本においてはヤクザ(暴力団)は「山賊的」、つまり垂直的で縦割りでピラミッド型組織形態だとしても、そしてカタギとヤクザの間に乗り越え不能な障壁が設置されているのだとしても、世界的にみれば、ビジネスと犯罪、市民とギャングは連続的であり、「海賊的」なありようをしている。勿論暴力や殺人を讃美する気などない。だが、渋谷望が『魂の労働』で、酒井隆史が『暴力の哲学』で書いたように、POSSE=力の自己肯定は、周縁に追いやられた子供らの側にあるのではないか? それを大西巨人野間宏を罵倒したように、「不良の革命性」など語る奴は「俗情との結託」だと切り捨てるべきなのだろうか? わたしにはどうしてもそうは思えないのだが。

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

暴力の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

暴力の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

Miles Davis / In A Silent Way

IN A SILENT WAY

IN A SILENT WAY