わたしは、在野の哲学者。

大学(大学院)を放逐されたわたしは、自宅にひきこもって、船橋市図書館通いを続けて、一人で本を読みながら考えるよりほかない。大学に残れる(残れた)人は大学でやればいいと思う。だが、わたしは残れなかった。だから、このブログがわたしの戦場だ。ここで書き、ここで考える。

モーゼス・ヘス、良知力、ジョルジ・ルカーチ

モーゼス・ヘス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%98%E3%82%B9
良知力
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E7%9F%A5%E5%8A%9B
モーゼス・ヘスと観念弁証法の諸問題
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%98%E3%82%B9%E3%81%A8%E8%A6%B3%E5%BF%B5%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95%E3%81%AE%E8%AB%B8%E5%95%8F%E9%A1%8C
わたしが読んだのは、これじゃないかなあ。

ユダヤ人問題 (ヘーゲル左派論叢 3)

ユダヤ人問題 (ヘーゲル左派論叢 3)

ヘーゲルを裁く最後の審判ラッパ (ヘーゲル左派論叢 4)

ヘーゲルを裁く最後の審判ラッパ (ヘーゲル左派論叢 4)

これも面白そうだ。
モーゼス・ヘスと観念弁証法の諸問題 (社会科学ゼミナール 56)

モーゼス・ヘスと観念弁証法の諸問題 (社会科学ゼミナール 56)

YOUN SUN NAH

ラジオで流れてきたが、凄くいい。

YOUN SUN NAH SAME GIRL

YOUN SUN NAH SAME GIRL

James Moody

これもいいねえ。聴きたい。だが金がない!!!!ケニー・バロンのピアノが素晴らしい。

Moody 4B

Moody 4B

Moody 4a (Dig)

Moody 4a (Dig)

もっとも重要であるビバップの本質の領域

いーぐる後藤の新ジャズ日記(id:eaglegoto)にはコメントに管理者の承認が必要なので、こっちに書く。コメント欄でnetjazzさんが述べている、「もっとも重要であるビバップの本質の領域」って何なんだろうか? 音楽理論的なものなのか、楽器奏法的なものなのか。とりあえずよく分からない。鑑賞者の美学しかなく、創造する者や演奏家の美学がないというのはよく分かる。確かにその通りだ。チャーリー・パーカーの美学というのは、想像することもできない。
他方ジャズ史には、「理論的」であったジャズミュージシャンも多数いるわけで、レニー・トリスターノとか、ジョージ・ラッセルとか、オーネット・コールマンとか、○○理論というのを創った人は幾らでもいる。そういうものは、どういう評価なんだろうか?

セシル・テイラー / ジャンピン・パンキンス

思いもかけず良い演奏だ。

ジャンピン・パンキンス

ジャンピン・パンキンス

Wynton Kelly Trio With Joe Henderson / Complete Recordings

いつまで経っても聴き終わらぬ長い演奏w

Complete Recordings (Reis)

Complete Recordings (Reis)

いーぐる普遍論争への私の総括

netjazzさんとid:MosesHessさんが総括を出しているので、わたしも。
わたしは「白旗男」というエントリーから介入を開始したが、議論の論旨の明晰化にどれほど寄与できたかは分からないが、わたし自身の考えの明晰化には十分役立った。自分がどう考えているのかは分かった。だが、謎は謎として残った。
その最大のものが、一般的な相対主義を採用するとき、クラシックはヨーロッパの一民族音楽、ジャズはアメリカの一民族音楽になるということで、本当にそれでいいのかという問題である。普遍性、いや世界性という言葉を用いたほうがいいかもしれないが、そのような事実はないのか。クラシックやジャズが、後にはロックが、ヨーロッパやアメリカに留まらず世界中に伝播したという事実を、どう考えるべきなのだろうか。この問いが、謎として自分の中に残った。
哲学的、美学的にいえば、ドゥルーズの『シネマ』を例にとりながら、先行するのは批評(喧々諤々の賛否両論)であり、ミネルヴァの梟のように、美学なり哲学はその「後で」やってくる、ということだと思う。最初には、対話、議論の空間があるのであり、それが歴史として整理されるのは後になってからのことだ。例えば我々が現在、向き合うのは、価値の不確定な作品なのである。例えば大西順子の『バロック』。
そういうことを考えた。

netjazzさんへの応答

普遍論争にお付き合いいただいたので、ある程度、説明する責任があるでしょうか。昨日の話の続きからです。

>普遍的であることへの賛同を他者に求める

芸術に関しては、創造し、その結果を内省するということです。先進的な芸術家にとって、想定する他者は現実には存在していません。

>その辺は揺れています。

自分にとって何が必要か、だと思います。あまり手広くやらずに専門をしっかり仕上げるという選択肢もあるかもしれません。

>音楽理論的なものなのか、楽器奏法的なものなのか。

当然、その手のことは極めなくてはいけません。ただ、言葉や記号で表記できるものは、音楽にとってほんの一部でしかないということです。言葉や記号を偏重して、芸術的な内省を欠くものを強引に芸術を捉えるのが20世紀の流行なのですが、それは同時に普遍(妥当)性も欠くものとなります。ラフマニノフ、あるいはパーカーやバドはそれに迎合しなかったわけです。

>創造する者や演奏家の美学がない

いえ、私がよく引用するマイルスの自叙伝を読むと、言語や理論についても一貫していて、確固たるものをもっています。断片的な証言から、バードやバドもそうですね。どこで勉強したのか?と不思議なくらいですが、そうでないとああいった音楽はできない、ということなのでしょう。

>○○理論というのを創った人は幾らでもいる。そういうものは、どういう評価なんだろうか?

上に書いたとおり、程度によって、芸術として残るのか、あるいはその場限りで消えるか、ですが、別にその場限りでいい、という目的の音楽もありますよね。それが今回の「いーぐる普遍論争」の私なりの答えです。

「芸術に関しては、創造し、その結果を内省するということです。先進的な芸術家にとって、想定する他者は現実には存在していません。」
→何というか、「創造状態にある」芸術家においてはそうでしょうね。聴衆なり他者を顧慮する余裕はないかもしれません。しかし、それはどのような音楽か、にもよるでしょう。ジャズクラブで演奏するときに、聴衆の傾向を無視することは、「空気が読めない」態度と言われても仕方ないでしょう。例えば六本木ソフトウインドでガンガンのフリーを演奏することは空気読めてないわけです(笑)。

「自分にとって何が必要か、だと思います。あまり手広くやらずに専門をしっかり仕上げるという選択肢もあるかもしれません。」
→わたしは、多読というか、もっと多くを知らないと、という気持ちと、数少ないテキストを精読したいという傾向があります。恐らく両方必要なのでしょう。音楽も同じですね。多くを聴きたい気持ちと、精選した数枚を聴きたいという気持ちが両方あります。

「当然、その手のことは極めなくてはいけません。ただ、言葉や記号で表記できるものは、音楽にとってほんの一部でしかないということです。言葉や記号を偏重して、芸術的な内省を欠くものを強引に芸術を捉えるのが20世紀の流行なのですが、それは同時に普遍(妥当)性も欠くものとなります。ラフマニノフ、あるいはパーカーやバドはそれに迎合しなかったわけです。」
ラフマニノフとパーカー、パウエルを並べるのには違和感があります。彼らの音楽性は全く異なるものでは?笑 言葉や記号で表記できるのは音楽の一部というのには賛成です。誰だったか、言葉が終わるところから音楽が始まると語っていましたね。芸術的な内省というものの内容はよく分かりませんが、良き芸術家であるためには反省的でならないだろうなとは思います。

「いえ、私がよく引用するマイルスの自叙伝を読むと、言語や理論についても一貫していて、確固たるものをもっています。断片的な証言から、バードやバドもそうですね。どこで勉強したのか?と不思議なくらいですが、そうでないとああいった音楽はできない、ということなのでしょう。」
→ということは、明示されていないが、バード、バド、マイルスには確固たる美学、音楽理論、方法論があったのだということですね? ただ、それがどういうものかは、丹念に聴取、読解を続けることでしか見えてこないでしょうね。

「上に書いたとおり、程度によって、芸術として残るのか、あるいはその場限りで消えるか、ですが、別にその場限りでいい、という目的の音楽もありますよね。それが今回の「いーぐる普遍論争」の私なりの答えです。」
→膨大な新譜があるわけですが、どのくらいのものが「後世に残る」のだろうか、と考えることはありますね。上原ひろみでも、菊地成孔でも…。しかし、「後世」を待つというより、「今」生きなければなりませんから、後世のことを顧慮する余裕はミュージシャン側にはないかもしれませんね。

モーゼス・ヘスと初期マルクス

これも読みたい。

モーゼス・ヘスと初期マルクス (1972年)

モーゼス・ヘスと初期マルクス (1972年)

二和向台〜三咲サーガ

Big-A船橋三咲店(http://www.biga.co.jp/)、リブレ京成三咲店(http://www.keiseistore.co.jp/)、マルエツ二和向台店(http://www.maruetsu.co.jp/index.html)を回って帰ってきた。マルエツでは、二階のダイソーマルエツ二和向台店(http://www.daiso-sangyo.co.jp/)に寄り、CDを入れるケースと会費の封筒を購入。リブレでは米を購入。Big-Aではカイワレ等を購入。

二和向台サーガ、マルエツ冬の陣!

TSUTAYAがコピー1枚5円なのでTSUTAYAで老人向けの替え歌や芸音音楽アカデミーの入会申込書などをコピーしてから、母親と二人でマルエツへ。今日二回目のマルエツである。
丁度、弁当類が半額になったばかりの時間だった。私と母親は怒涛の勢いで買い漁り、会計は2005円、そして今日日曜日はOMCカード5%割引デーなので、その分が引かれ、2000円を少し切るくらいのお値段になった。全て半額で買い占めているから相当な量である。
それを今、食べてきたのだが、一個80円、半額だから40円の牛肉コロッケ。実に美味しい。一個90円、半額=45円のカニクリーミーコロッケも美味しい。それから、昨日買っておいた鶏だとかを食べ、炊き立ての白いご飯でお腹一杯に。
ああ、これだから太るんだろうな(笑)。マルエツ半額弁当地獄なり。

で、話は変わるが、NHKスペシャルを食事しながら観ていたのだが、この番組は本当に勉強になる。今、アジアでは、緑色戦争というのが勃発しているというのである。緑色戦争とは、経済発展が著しい中国の環境問題(公害等)に対応するグリーンビジネスの競争のことで、日本と韓国が争っているが、韓国は国家を挙げての取り組みで攻勢を掛けてきている。日本の中小企業も頑張ろうとしているが、大変なようだ。
環境問題も熾烈な商売=ビジネスなのだということを痛感させられると共に、呑気に生きている自分の生存がこれでいいのか、などと自省したりもする。いやー中小企業大変ですよ。経営者。どうにかならんのか。日本も国ぐるみで支援とかできんのか。
というような感想を抱いた。

芸術ダーウィニズム

ダーウィンの進化論は科学ですが、社会ダーウィニズムは胡散臭いイデオロギーです。生物学的比喩を社会であれ芸術であれ、他の領域に適用しようとするときには慎重でなければなりません。
社会ダーウィニズムの何処がイデオロギーかというと、自然界では何が(誰が)適応的な個体かは、自然淘汰(自然選択)の後にしか分からない、つまり事前に何が優れているかは決められないというところを無視していることにあります。
ダーウィニズムは環境とセットで考えないと意味ないのです。新ダーウィニズムの知見も含めて概略的にいえば、まず、個体レヴェルで突然変異があり、そのうち、その個体群が棲息していた環境に適応的であったものが生き残ります。また、自然界では常に、競争していたり優勝劣敗の原則が貫かれたりしているわけでもない。分散的な棲み分けもあるし、偶然も大いに介入するわけです。

以上を前提としたうえで、お題の芸術ダーウィニズムですが、「その芸術作品がどのような環境のもとでその芸術的価値を値踏みされるかによって、その作品が後世まで残るか否かが決まる」と言えそうに思います。どんな高踏的な芸術でも、それを発見し評価してくれる聴衆なり批評家なりの存在なしには、歴史の闇のなかに埋もれるだけです。また、忘却されていた作品が後世、復活されることもあります。バッハやモーツァルトなどがそうですね。
まあ、問題は芸術的価値とは何で、それは誰がどのように決めるのかという美学の根本的な問題になるのですが。わたしが知っている範囲では、吉本隆明が戦前のプロレタリア文学の文学理論を批判して『言語にとって美とはなにか』を書いた時、「自己表出」を『資本論』のいう交換価値のようなものとして、「指示表出」を使用価値のようなものとして構想したそうですが、これはマルクスの読み方としてもそもそもおかしいというのは別にして、音楽には適用できそうにもないと思います。ジャズのアドリブ、即興は「自己表出」になるんでしょうか? では「指示表出」になるのは何でしょうか? などと考えると、分からなくなります。音楽、ジャズはそれはそれとして美学的探求を続けるしかないと思います。

私の意見

吉本隆明は『資本論』との類比で、芸術価値論をやったわけですが、わたしの個人的な意見としては、ジャズ(に限らず芸術作品一般)は「商品」ではないものとして、つまり『資本論』の価値法則では語れないものとして扱うべきではないかと思います。
岡崎乾二郎さんは、かつてエッセイで、芸術作品は常に既に「売れ残りの商品」なのだとし、その価値実現の「遅延」なり「ランダム性」を強調したのですが、岡崎さんの意図はよく分かりませんが、芸術作品は資本主義的市場のメカニズムとは別のところで、例えば目利きのコミュニティなどでその価値なり意味が決定されているように思います。つまり、素晴らしい芸術作品であっても、同時代には全く売れないとか評価されないということもあり得る。しかし、その価値を認知し承認する他者(コミュニティ)の介入がなければ、そのまま歴史に埋もれるでしょうが、介入があった場合、市場的には売れなくても後世に残る可能性はあると思います。いずれにせよ、芸術的な分野は、資本主義的市場の自由競争原理にだけ任せていればよいというわけにはいかぬと思います。