芸術ダーウィニズム

ダーウィンの進化論は科学ですが、社会ダーウィニズムは胡散臭いイデオロギーです。生物学的比喩を社会であれ芸術であれ、他の領域に適用しようとするときには慎重でなければなりません。
社会ダーウィニズムの何処がイデオロギーかというと、自然界では何が(誰が)適応的な個体かは、自然淘汰(自然選択)の後にしか分からない、つまり事前に何が優れているかは決められないというところを無視していることにあります。
ダーウィニズムは環境とセットで考えないと意味ないのです。新ダーウィニズムの知見も含めて概略的にいえば、まず、個体レヴェルで突然変異があり、そのうち、その個体群が棲息していた環境に適応的であったものが生き残ります。また、自然界では常に、競争していたり優勝劣敗の原則が貫かれたりしているわけでもない。分散的な棲み分けもあるし、偶然も大いに介入するわけです。

以上を前提としたうえで、お題の芸術ダーウィニズムですが、「その芸術作品がどのような環境のもとでその芸術的価値を値踏みされるかによって、その作品が後世まで残るか否かが決まる」と言えそうに思います。どんな高踏的な芸術でも、それを発見し評価してくれる聴衆なり批評家なりの存在なしには、歴史の闇のなかに埋もれるだけです。また、忘却されていた作品が後世、復活されることもあります。バッハやモーツァルトなどがそうですね。
まあ、問題は芸術的価値とは何で、それは誰がどのように決めるのかという美学の根本的な問題になるのですが。わたしが知っている範囲では、吉本隆明が戦前のプロレタリア文学の文学理論を批判して『言語にとって美とはなにか』を書いた時、「自己表出」を『資本論』のいう交換価値のようなものとして、「指示表出」を使用価値のようなものとして構想したそうですが、これはマルクスの読み方としてもそもそもおかしいというのは別にして、音楽には適用できそうにもないと思います。ジャズのアドリブ、即興は「自己表出」になるんでしょうか? では「指示表出」になるのは何でしょうか? などと考えると、分からなくなります。音楽、ジャズはそれはそれとして美学的探求を続けるしかないと思います。