netjazzさんへの応答

普遍論争にお付き合いいただいたので、ある程度、説明する責任があるでしょうか。昨日の話の続きからです。

>普遍的であることへの賛同を他者に求める

芸術に関しては、創造し、その結果を内省するということです。先進的な芸術家にとって、想定する他者は現実には存在していません。

>その辺は揺れています。

自分にとって何が必要か、だと思います。あまり手広くやらずに専門をしっかり仕上げるという選択肢もあるかもしれません。

>音楽理論的なものなのか、楽器奏法的なものなのか。

当然、その手のことは極めなくてはいけません。ただ、言葉や記号で表記できるものは、音楽にとってほんの一部でしかないということです。言葉や記号を偏重して、芸術的な内省を欠くものを強引に芸術を捉えるのが20世紀の流行なのですが、それは同時に普遍(妥当)性も欠くものとなります。ラフマニノフ、あるいはパーカーやバドはそれに迎合しなかったわけです。

>創造する者や演奏家の美学がない

いえ、私がよく引用するマイルスの自叙伝を読むと、言語や理論についても一貫していて、確固たるものをもっています。断片的な証言から、バードやバドもそうですね。どこで勉強したのか?と不思議なくらいですが、そうでないとああいった音楽はできない、ということなのでしょう。

>○○理論というのを創った人は幾らでもいる。そういうものは、どういう評価なんだろうか?

上に書いたとおり、程度によって、芸術として残るのか、あるいはその場限りで消えるか、ですが、別にその場限りでいい、という目的の音楽もありますよね。それが今回の「いーぐる普遍論争」の私なりの答えです。

「芸術に関しては、創造し、その結果を内省するということです。先進的な芸術家にとって、想定する他者は現実には存在していません。」
→何というか、「創造状態にある」芸術家においてはそうでしょうね。聴衆なり他者を顧慮する余裕はないかもしれません。しかし、それはどのような音楽か、にもよるでしょう。ジャズクラブで演奏するときに、聴衆の傾向を無視することは、「空気が読めない」態度と言われても仕方ないでしょう。例えば六本木ソフトウインドでガンガンのフリーを演奏することは空気読めてないわけです(笑)。

「自分にとって何が必要か、だと思います。あまり手広くやらずに専門をしっかり仕上げるという選択肢もあるかもしれません。」
→わたしは、多読というか、もっと多くを知らないと、という気持ちと、数少ないテキストを精読したいという傾向があります。恐らく両方必要なのでしょう。音楽も同じですね。多くを聴きたい気持ちと、精選した数枚を聴きたいという気持ちが両方あります。

「当然、その手のことは極めなくてはいけません。ただ、言葉や記号で表記できるものは、音楽にとってほんの一部でしかないということです。言葉や記号を偏重して、芸術的な内省を欠くものを強引に芸術を捉えるのが20世紀の流行なのですが、それは同時に普遍(妥当)性も欠くものとなります。ラフマニノフ、あるいはパーカーやバドはそれに迎合しなかったわけです。」
ラフマニノフとパーカー、パウエルを並べるのには違和感があります。彼らの音楽性は全く異なるものでは?笑 言葉や記号で表記できるのは音楽の一部というのには賛成です。誰だったか、言葉が終わるところから音楽が始まると語っていましたね。芸術的な内省というものの内容はよく分かりませんが、良き芸術家であるためには反省的でならないだろうなとは思います。

「いえ、私がよく引用するマイルスの自叙伝を読むと、言語や理論についても一貫していて、確固たるものをもっています。断片的な証言から、バードやバドもそうですね。どこで勉強したのか?と不思議なくらいですが、そうでないとああいった音楽はできない、ということなのでしょう。」
→ということは、明示されていないが、バード、バド、マイルスには確固たる美学、音楽理論、方法論があったのだということですね? ただ、それがどういうものかは、丹念に聴取、読解を続けることでしか見えてこないでしょうね。

「上に書いたとおり、程度によって、芸術として残るのか、あるいはその場限りで消えるか、ですが、別にその場限りでいい、という目的の音楽もありますよね。それが今回の「いーぐる普遍論争」の私なりの答えです。」
→膨大な新譜があるわけですが、どのくらいのものが「後世に残る」のだろうか、と考えることはありますね。上原ひろみでも、菊地成孔でも…。しかし、「後世」を待つというより、「今」生きなければなりませんから、後世のことを顧慮する余裕はミュージシャン側にはないかもしれませんね。