不眠症の夜に

今晩も観念が頭脳の中で沸騰して眠れぬ。だからその観念の幾つかを、書き付けておこうと思う。
まず、自分はフランス哲学専攻だったが、ドイツ哲学(ゲルマニスト)に宗旨替えしようかということ。サルトル以降の現代フランス哲学は全て、ハイデガーの変奏のようなものだ。

「希望は戦争」「丸山真男を殴りたい」人を実際の戦場に叩き込んでやりたいという凶暴な衝動。

批判に答える。

むむむ 2010/10/18 00:38
>性(性現象、性的欲望、性的活動…)は無限に多様であり、その多様さを尊重し、平等に扱う。

>私自身は、「レイプ、児童買春など」は認められないと思っています。

性(性現象、性的欲望、性的活動…)は無限に多様であるが、その多様さの一部(例えば、レイプ、児童買春など)は否認し、平等には扱かわない。その否認の根拠が「ラディカルで参加的な民主主義」というものなのでしょうね。そこまでは摂津さんの言葉から読み取れます。そして、その読解では「ラディカルで参加的な民主主義」において「無限の多様性」の尊重は制限的に行われるということを意味していますよね。更に、「多数多様性自体を破壊するような原理原則は認められない」という時の摂津さんは、「無限」という言葉が既に「有限」になっており、「自らの認める多様性しか多様性の範疇として認めない」ということを語っていることでしかない。ということは、それは、相対主義でもなんでもなく、摂津絶対主義であり、摂津主義的、摂津内平等主義的であると。

もちろん、私は、そういう意見もアリだと思ってますが。

摂津さんは、ブログを読む限り、自らの性(性現象、性的欲望、性的活動…)を無限の多様の一部として認めてもらい、自らの性を尊重してもらい、平等に扱ってもらうことを望んでいるに過ぎないように読み取れてしまいます。つまり、「少年のチンポを切りたいという性的な欲望を承認せよ」と小難しい言葉を使って繰り返しているように思えます。

私は、それもアリだと思ってますが。

まず欲望の次元と行為の次元を区別しましょう。欲望のレヴェルでは実際に、無限の多様性が「可能」です。欲望したり想像したりするのでは、どんな残酷も非行もアリです。
しかし、行為の次元は異なる。
例を挙げると、アフリカにおける女子割礼が、男性のどんな想像的エコノミーに基づいて行われているのか分かりませんが、実際の行為、活動、他者を傷付ける実践としてある限り、それは批判されるべきである。
レイプなども同様だし、少年の去勢なども同様です。私は少年の去勢をテーマに小説を書こうと思っていますが、それは「アリ」でしょう。しかし、実際に少年をその意思に反して去勢するとすれば、それは犯罪でしょう。

「更に、「多数多様性自体を破壊するような原理原則は認められない」という時の摂津さんは、「無限」という言葉が既に「有限」になっており、「自らの認める多様性しか多様性の範疇として認めない」ということを語っていることでしかない。ということは、それは、相対主義でもなんでもなく、摂津絶対主義であり、摂津主義的、摂津内平等主義的であると。」
というのは、全く当たらないと考えます。私個人が認める、認めないという次元の話ではないのです。
例を挙げましょう。イラン革命は、近代史における一つの巨大な集団的主観性の創出です。しかし、それには復古的なテーマ、女性解放の流れに反する流れがある。
アメリカの言いなりだったシャーを権力の座から追放した、イラン民衆のデモは正しい。しかし、その後成立した、イスラム国家的なもの、ホメイニ師をトップとする体制には大いに問題がある。
多数多様な集団的主観性の創出、発明の一つとして、イスラム復興運動的なものもある。しかし、それが女性や性的少数者に対して抑圧的だとしたら、その事実を見過ごすわけにはいかない。実際、イランなどでは石打ち刑という残虐な刑罰が姦通や同性愛に対して科されている。それは、断固批判すべきなのです。
これは、多数多様性という理念そのものを守るために、当然のことであって、「攝津絶対主義」などではないのです。そのことを理解してください。

モントゥルー・ジャズ・フェスティヴァルのビル・エヴァンス +1

モントゥルー・ジャズ・フェスティヴァルのビル・エヴァンス

モントゥルー・ジャズ・フェスティヴァルのビル・エヴァンス

モントゥルー・ジャズ・フェスティヴァルのビル・エヴァンス+1

モントゥルー・ジャズ・フェスティヴァルのビル・エヴァンス+1

モントゥルー・ジャズ・フェスティヴァルのビル・エヴァンス+1

モントゥルー・ジャズ・フェスティヴァルのビル・エヴァンス+1

ビル・エヴァンスへの批評で、彼の演奏の質の高さは「ナーディス」の演奏速度に反比例するという説を唱えた人がいて、その伝でいくとかなり速い「ナーディス」が入っているこの「お城のエヴァンス」は最低ランク、劣化エヴァンスと捉えられることになる。
しかし、私が初めて購入したエヴァンスのアルバムはこれだったのだが、そんなに悪い作品とは思えない。むしろ聴けば聴くほどに好きになっていく。
軽妙だし、それほど悲しくないし(エヴァンスは悲しい、というのが大方のジャズ好きの一致した見解だ)、破綻はないし。確かに初期四部作や晩年の『ユー・マスト・ビリーブ・イン・スプリング』などに比べるとどうかな、とは思うけれども、これはこれでいいと思う。

学校に入り直す夢

大学を出た後に、何故か高校に入り直すという夢をよく見る。さっきも見た。別の高校なのに、津田沼高校の先生や同級生らがいる。そして、教室に秀才が多いので予習をしないとついていけないのではないか、と不安になる。
私は高校を中退しようか迷っている。肉体労働はしていないのに体がだるい、と考える。月10万円ほどの学費が浮くし、でも哲学の授業は受けたいな、などと考えている。
どういうわけか女装してリンダちゃんスタイルになっており、女性教師が携帯電話で誰かと会話しながらデジタルビデオカメラでスカートの中を盗撮しようとするので、何してるんですか?と問う。そこで目覚めた。

ミネルヴァの梟は…

私のブログのコメント欄への自分の書き込みの一部です。

一般に、闘争なり抗争なしに多数多様性という価値が獲得されるわけではないのです。私は、カントの哲学が「批評」から始まったという柄谷行人の意見に賛成です。つまり、毀誉褒貶の激しい論争があり、和解不可能な闘いがあり、そうした根本的に異質なもの同士がぶつかり合う「歴史」を経た後に、歴史的に「価値」が確定されるのです。言論の闘い、ときには身を挺しての闘いがあり、その後に価値の多数多様性が確立される。それが歴史というものです。

上記のように私が書いた意味を解説しながら、次の議論に繋げたいと思っています。簡単にいえば、私は、「批評」が(体系としての)「美学」に先行する、と考えているのです。
ドゥルーズの『シネマ』は最も適当な例でしょう。この本は、邦訳が出る随分前、私がまだ学生だった頃のことですが、マニアックな映画好きにはとても評判が悪かった。というのは、ヌーヴェル・ヴァーグの批評家(アンドレ・バザンなど)の批評の価値観をそのまま引き写しにしているだけで、日活ロマンポルノも日本のドキュメンタリーも入っていない、クリント・イーストウッドも入っていない、というのです。
私は彼らの言い分は正しいと思いますが、若干留保があります。
『シネマ』は映画というジャンルに関して、イメージ(フランス語読みだと、イマージュ)なり記号の自己発展の体系を壮大に描き出しているようにみえます。(ドゥルーズが嫌っているヘーゲル弁証法のようですね。)しかし、そのような美学的達成が可能だったのは、膨大な批評的言説が既にあり、それを参照することができたからなのです。
ミネルヴァの梟は…」というのは、ヘーゲルの有名な言葉ですが、美学ないし哲学は、「後から」来るもので、「始めにあるのは毀誉褒貶の戦場、多事争論の空間」だということなのです。

ジャズの例を取りましょう。電化マイルスが歴史的価値がある、ということは、ジャズ関係者の大多数が承認していると思います。しかし、それが出てきた当時はそうではなかった。それを熱烈に擁護する批評家やファンと、全否定する批評家やファンが、まさに和解のない戦いを繰り広げていた。
しかし、ジャズの歴史はもともとそうだった。チャーリー・パーカーディジー・ガレスピービバップが出てきたときも、ルイ・アームストロングはそれを「チャイニーズ・ミュージック」(わけのわからぬ音楽)と呼んで──中国人に失礼な話ですね──、馬鹿にした。しかし、ビバップは広まり、ジャズを愛する人の大多数がバップの価値を承認している。スウィング・エラしか認めない、という人はかなりの少数派ではないでしょうか。

カントの美学の話をすれば、あの規定的/反省的判断力という話は、普遍と特殊の関係の話だったはずです。普遍的規則から特殊なり個別を演繹するのではなく、特殊なり個別、私達の文脈では個々の作品から出発して、普遍を推測(想像)するということ──これが反省的判断力の役割のはずです。
個々の作品を前にした私の判断はあくまで、個人的、私的なものです。しかし、私は「あたかもそれが普遍的なものであるかのように」主張するのです。そして、そのように主張する主観(主体)は複数的、多数で、相容れない部分や和解不可能性があるから、それぞれの主張の相克が生じます。
作品の価値が確定されるのは、そのような批評の「戦い」の後なのです。言い換えれば、美学が可能になるのは、体系が可能になるのは、ということですが。
電化マイルスやビバップの例を挙げましたが、それは今でこそ普遍的で客観的な価値「であるかのような」様相を呈しているけれども、そうではないかもしれない。ジャズの世界には、今でもそれを断固として認めないという人がいるかもしれない。その意味で、美的判断は「100%客観的」ではあり得ず、共同主観的、間主観的、或いは共同体的なものに留まる。そうでないとしたら、もしかしたらいるかもしれない反論者(少数派)の意見を抹殺したうえでしか可能でないでしょう。

netjazzさんは何か誤解しているようですが、私はマルクス主義的批評を主張しているわけでも、プロレタリアの立場に立っているわけでもないですよ。ただ単にジャズが好きで、その批評なり美学の基礎づけ(根拠づけ)に努力したいと思っているだけです。

用語の問題

後藤さん(id:eaglegoto)は共同主観性という用語を使い、私は集団的主観性という用語のほうを好みます。それは互いの理論的枠組みの違い、後藤さんならメルロ=ポンティ現象学、私ならドゥルーズ=ガタリの哲学というふうに相違しているからです。
共同体の多数決が作品の価値を決める、というわけではありません。先程アップした記事からもそれは窺えると思います。チャールズ・サンダース・パースについても、単に真理は多数決で決まると唱えたわけではなく、「科学者の」共同体の合議というところが重要です。要するに有資格者の合議ということですね。
ジャズなり芸術批評というと、誰が有資格者なのかというのは難しい。けれども、NHK FMで毎週土曜日に「ジャズ・トゥナイト」(http://www.nhk.or.jp/jazz/)を放送している児山紀芳さんなども参加している「国際批評家投票」などは有力な指標なのではないでしょうか。また、『スイングジャーナル』休刊など商業的には厳しくなってきているとはいえ、もろもろのジャズ雑誌や、com-post、この掲示板などでの「毀誉褒貶」「多事争論」も挙げていいのでは。
共同体による決定ということで、私は何か権威主義的な、或いは衆愚的なことを考えているのではなく、毀誉褒貶が交錯する極めてダイナミックな言説空間をイメージしています。私が誰それのAというのはこれこれの理由でいいよ、と発言したら、別の人がAなんてまるでダメだ!と全否定してくるような議論のイメージです。例えば、com-postでは、大西順子の『バロック』に肯定的な評が2人、否定的な評が2人ですね。そのいずれが妥当か、まだ決められない。その意味で、『バロック』は価値未決状態にあると考えます。今後、議論、論争、闘争が継続されることで、つまり「歴史」が作られることで、その価値が徐々に、漸次的に確定されていくと考えるものです。

ジョン・コルトレーン / バラード

バラード

バラード

ジョン・コルトレーンの『バラード』は、一応名盤ということにはなっているけれど、それに反撥する人もいる。これは、そもそも偶然の事情で吹き込まれたものだ。当時コルトレーンは、ばりばりのフリーを演奏していたけれども、この日、テナーサックスのマウスピースの調子がちょっとおかしかった。それで、激しいフリー演奏ではなく、スタンダードのバラード演奏にしようということになったのだという。
結果は、コルトレーンの中で最もファンから愛されるアルバムに仕上がった。コルトレーンは過激だが、優しさや叙情性も秘めていたとよく分かる。ごく初期からそうだったのだが。

笑う。

下記を読んで笑う。確かにそうだ。

http://twitter.com/yonezawaizumi/status/27715313199

これ今気づいたんですけど、せっちゃん、あなた「そりが合わない」のは地球上のほとんどの人じゃないの? RT: @femmelets 東京のパレードに関わっていた人達とはなんでこうもそりが合わないんだろうな、とは自問していますが。私は、彼らは差別的、侮蔑的だと思います。

ディジー・ガレスピー・クインテット・フィーチュアリング・ラロ・シフリン / ガレスピアーナ・スイート

ガレスピアーナ・スイート

ガレスピアーナ・スイート

ラロ・シフリンがビッグバンドのために書いた大曲をクインテット用に直したものが演奏されるが、ディジー・ガレスピーのトランペットもよく鳴っているし、素晴らしい。
これは「伝説のジャズ・ジャイアンツ」シリーズの一枚で、岩浪洋三の解説によると、1969年録音のセロニアス・モンクもあるそうだが、是非聴いてみたい。それに限らずこのシリーズは全部欲しいが、CDショップで見掛けたことがない。

メンバーは、

  • Dizzy Gillespie (tp)
  • Leo Wright (as, fl)
  • Lalo Schifrin (p)
  • Art Davis (b)
  • Chuck Lampkin (perc)
  • Candido (conga)(tracks 6&7)

夢想

横になってうとうとすると甘い性的な夢を見る。最近メールを寄越した誰それに告白してみようとか、路上生活者になった誰それを誘惑しようとか、何だとか。実現可能性はゼロに近いんだが。相手が同性愛者/異性愛者/バイセクシュアルのいずれなのかも分からない。

Dizzy Gillespie y Machito / Afro-Cuban Jazz Moods

Afro Cuban Jazz Mood

Afro Cuban Jazz Mood

Dizzy Gillespie y Machito / Afro-Cuban Jazz Moods
conducted and arranged by Chico O'farrill

ラテンの陽気なリズムに乗って思わず欝も治りそうと錯覚したりして。参加ミュージシャンの名前一覧の中に知っている人の名前はない。

相対主義万能論ではなく…

価値判断が生成してくる過程を叙述しようとしたのです。
一定の支持を得ている価値判断、例えばパーカーのビバップは素晴らしいという価値判断が確立したとしても、ウィズストリングス以外パーカーは認めない、という寺島靖国さんのような方もいらっしゃるわけです。一つの意見なり判断を万人に強制することは事実上できませんし、望ましくもないでしょうから、100%の客観性は無理だ、と言いました。
有資格者の問題なども誤解されていると感じますが、要するに科学的真理に関する科学者のような立場の人をジャズにおいて探しているわけですよ。プレイヤー、批評家、聴衆などが思い浮かびます。私は、パーカーならパーカーを、楽理的に理解しなければ理解したことにはならない、とは思わないものです。それでは、ごく一部のパーカー研究家しかパーカーを理解していないことになる。パーカーを繰り返し聴き、受容し、理解するだけで十分だと思うのです。それすらできているのかと問われるかもしれませんが。