用語の問題

後藤さん(id:eaglegoto)は共同主観性という用語を使い、私は集団的主観性という用語のほうを好みます。それは互いの理論的枠組みの違い、後藤さんならメルロ=ポンティ現象学、私ならドゥルーズ=ガタリの哲学というふうに相違しているからです。
共同体の多数決が作品の価値を決める、というわけではありません。先程アップした記事からもそれは窺えると思います。チャールズ・サンダース・パースについても、単に真理は多数決で決まると唱えたわけではなく、「科学者の」共同体の合議というところが重要です。要するに有資格者の合議ということですね。
ジャズなり芸術批評というと、誰が有資格者なのかというのは難しい。けれども、NHK FMで毎週土曜日に「ジャズ・トゥナイト」(http://www.nhk.or.jp/jazz/)を放送している児山紀芳さんなども参加している「国際批評家投票」などは有力な指標なのではないでしょうか。また、『スイングジャーナル』休刊など商業的には厳しくなってきているとはいえ、もろもろのジャズ雑誌や、com-post、この掲示板などでの「毀誉褒貶」「多事争論」も挙げていいのでは。
共同体による決定ということで、私は何か権威主義的な、或いは衆愚的なことを考えているのではなく、毀誉褒貶が交錯する極めてダイナミックな言説空間をイメージしています。私が誰それのAというのはこれこれの理由でいいよ、と発言したら、別の人がAなんてまるでダメだ!と全否定してくるような議論のイメージです。例えば、com-postでは、大西順子の『バロック』に肯定的な評が2人、否定的な評が2人ですね。そのいずれが妥当か、まだ決められない。その意味で、『バロック』は価値未決状態にあると考えます。今後、議論、論争、闘争が継続されることで、つまり「歴史」が作られることで、その価値が徐々に、漸次的に確定されていくと考えるものです。