批判に答える。

むむむ 2010/10/18 00:38
>性(性現象、性的欲望、性的活動…)は無限に多様であり、その多様さを尊重し、平等に扱う。

>私自身は、「レイプ、児童買春など」は認められないと思っています。

性(性現象、性的欲望、性的活動…)は無限に多様であるが、その多様さの一部(例えば、レイプ、児童買春など)は否認し、平等には扱かわない。その否認の根拠が「ラディカルで参加的な民主主義」というものなのでしょうね。そこまでは摂津さんの言葉から読み取れます。そして、その読解では「ラディカルで参加的な民主主義」において「無限の多様性」の尊重は制限的に行われるということを意味していますよね。更に、「多数多様性自体を破壊するような原理原則は認められない」という時の摂津さんは、「無限」という言葉が既に「有限」になっており、「自らの認める多様性しか多様性の範疇として認めない」ということを語っていることでしかない。ということは、それは、相対主義でもなんでもなく、摂津絶対主義であり、摂津主義的、摂津内平等主義的であると。

もちろん、私は、そういう意見もアリだと思ってますが。

摂津さんは、ブログを読む限り、自らの性(性現象、性的欲望、性的活動…)を無限の多様の一部として認めてもらい、自らの性を尊重してもらい、平等に扱ってもらうことを望んでいるに過ぎないように読み取れてしまいます。つまり、「少年のチンポを切りたいという性的な欲望を承認せよ」と小難しい言葉を使って繰り返しているように思えます。

私は、それもアリだと思ってますが。

まず欲望の次元と行為の次元を区別しましょう。欲望のレヴェルでは実際に、無限の多様性が「可能」です。欲望したり想像したりするのでは、どんな残酷も非行もアリです。
しかし、行為の次元は異なる。
例を挙げると、アフリカにおける女子割礼が、男性のどんな想像的エコノミーに基づいて行われているのか分かりませんが、実際の行為、活動、他者を傷付ける実践としてある限り、それは批判されるべきである。
レイプなども同様だし、少年の去勢なども同様です。私は少年の去勢をテーマに小説を書こうと思っていますが、それは「アリ」でしょう。しかし、実際に少年をその意思に反して去勢するとすれば、それは犯罪でしょう。

「更に、「多数多様性自体を破壊するような原理原則は認められない」という時の摂津さんは、「無限」という言葉が既に「有限」になっており、「自らの認める多様性しか多様性の範疇として認めない」ということを語っていることでしかない。ということは、それは、相対主義でもなんでもなく、摂津絶対主義であり、摂津主義的、摂津内平等主義的であると。」
というのは、全く当たらないと考えます。私個人が認める、認めないという次元の話ではないのです。
例を挙げましょう。イラン革命は、近代史における一つの巨大な集団的主観性の創出です。しかし、それには復古的なテーマ、女性解放の流れに反する流れがある。
アメリカの言いなりだったシャーを権力の座から追放した、イラン民衆のデモは正しい。しかし、その後成立した、イスラム国家的なもの、ホメイニ師をトップとする体制には大いに問題がある。
多数多様な集団的主観性の創出、発明の一つとして、イスラム復興運動的なものもある。しかし、それが女性や性的少数者に対して抑圧的だとしたら、その事実を見過ごすわけにはいかない。実際、イランなどでは石打ち刑という残虐な刑罰が姦通や同性愛に対して科されている。それは、断固批判すべきなのです。
これは、多数多様性という理念そのものを守るために、当然のことであって、「攝津絶対主義」などではないのです。そのことを理解してください。