2012-02-12から1日間の記事一覧

フーコーの序文への異論

「長いフランスの歴史のなかではじめて書かれた倫理書」なんて言ってしまって本当に大丈夫なんだろうか。ベルクソンの最後の大著『道徳と宗教の二つの源泉』とかレヴィナス、デリダらの一連の著作は「倫理書」に入らないのか。全く理解不可能、私には。フー…

ジョルジョ・アガンベンによるドゥルーズ追悼文『人間と犬は除いて』(石田靖夫訳)についての覚書

今朝紹介したジョルジョ・アガンベンによるドゥルーズ追悼文『人間と犬は除いて』(石田靖夫訳)、素晴らしいと思いますが、余りにも細かいことなので恐縮なのですが、幾つか言いたいことがあります。(1) アガンベンが書いているのは、1987年春のサン=ドニ…

self-enjoyment再考

ホワイトヘッド著作集 第10巻『過程と実在(上)』(山本誠作訳、松籟社)、p.251有機体の哲学にとって、知覚しつつある契機は、現実態についてのそれ自身の規準である。もしその知識のうちに、他の現実的諸実質が現れるとすれば、そうありうるのは、ただそ…

上記と違い、冷静なときのフーコーの認識は…

ミシェル・フーコー「権力と戦略」聞き手:グループ・レヴォルト・ロジーク、大木憲訳、桑田禮彰、福井憲彦、山本哲士編『ミシェル・フーコー 1926-1984 権力・知・歴史』(新評論)、p.108-109ファシズムに走る大衆の欲望ということを肯定する場合にさまた…

倫理の書

ミシェル・フーコー『英訳版『アンチ・エディプス』への序文』(大橋洋一訳)、『現代思想』誌臨時増刊「総特集 ドゥルーズ=ガタリ」1984年9月20日(第1刷)、1994年12月1日(第6刷)、p.38 私は、『アンチ・エディプス』を(著者たちに許しを乞いつつ)、…

観照

ジル・ドゥルーズ『差異と反復』(財津理訳、河出書房新社)p.126-127受動的総合という至福が存在するのだ。わたしたちは、自分自身とはまったく別のものを観照するにせよ、とにかく観照を遂行することで快感を覚え(自己満足)、そしてこの快感のゆえにこそ…

self-enjoyment

「二人とも、極めて勇敢に、事実性から出発して実存を、それから、在り方に他ならないあの存在としての人間を思考したのである。しかし、ハイデガーの根本的な音色は、緊迫してほとんど金属でできているとでもいうような苦悶のそれであり、そのような音色の…