self-enjoyment

「二人とも、極めて勇敢に、事実性から出発して実存を、それから、在り方に他ならないあの存在としての人間を思考したのである。しかし、ハイデガーの根本的な音色は、緊迫してほとんど金属でできているとでもいうような苦悶のそれであり、そのような音色のもとでは、どんな特性[=本来性]も、どんな瞬間もひきつったようになって、やり遂げるべき責務と化してしまうのであった。逆に、ドゥルーズが英語でself-enjoyment[=自己享楽]と好んで呼んでいたあの感覚以上に、彼の根本的な音色を見事に表現するものはない。私のメモによれば、3月17日、彼はこの概念を説明するため、観想に関するプラトンの理論について述べることからはじめている。「どんな存在も観想する」と、彼は、記憶だけに頼って自由に引用しながら言ったのである。どんな存在も観想なのです。そうなのです、動物でさえ、植物でさえ観想なのです(人間と犬は除いて、と彼は付け加えた。彼にしてみれば、人間と犬は、喜びというものを知らない陰鬱な動物なのだ)。私[ドゥルーズのこと]が冗談を言っているのだ、これは冗談だと、みなさんは言うでしょう。そうです。でも、冗談でさえ観想なのです……。/万物が観想するわけです。花や牛は、哲学者以上に観想します。しかも、観想しながら、自分で自分を充たし、自分を享受するのです。花や牛は何を観想するのでしょうか。自分自身の要件を観想するのです。石はケイ素や石灰質を観想し、牛は炭素、窒素、そして塩を観想するわけです。これこそ、自己享楽というものです。自己享楽というのは、自分であるということの小さな快楽、つまり、エゴイズムのことではありません。喜びを生産するような、さらには、そうした喜びがこれからも持続するだろうという信頼感を生産するようなあの元素間の収縮のことであり、固有な要件についてのあの観想なのです。そういう喜びがなければ、人は生きていられないでしょう。というのも、心臓が止まってしまうでしょうから。われわれは、小さな喜びなのです。自分に満足するということは、忌まわしいものに抵抗する力を自分自身のなかに見い出すことです。/私のメモはここで終わっているのだが、まさに以上のような形で私はジル・ドゥルーズのことを覚えておきたいのだ。苦悶からはじまった暗い今世紀の偉大な哲学が喜びで終わるのである。」(ジョルジョ・アガンベン『人間と犬は除いて』石田靖夫訳、『現代思想』誌「緊急特集=ジル・ドゥルーズ」1月号 第24巻第1号、1996年1月1日発行、p.58-59