self-enjoyment再考

ホワイトヘッド著作集 第10巻『過程と実在(上)』(山本誠作訳、松籟社)、p.251

有機体の哲学にとって、知覚しつつある契機は、現実態についてのそれ自身の規準である。もしその知識のうちに、他の現実的諸実質が現れるとすれば、そうありうるのは、ただそれらが現実態のその規準に順応するからである。直接的な現実的実質が、現実的諸実質をそれ自身の構造に本質的なものとして露わにするとすれば、そのときのみ、こうした現実的諸実質の世界の明証がありうる。外的世界についての非本質的経験というデカルトの観念は、有機体の哲学には全く無縁である。これが根本的な相違点であり、有機体の哲学が、現実態の実体-属性観念への接近を断念するゆえんでもある。有機体哲学は、経験を、「多のうちでの一であるという、また多の構造から生起する一であるという自己享受」を意味するものとして、解釈する。デカルトは経験を解釈して、個体的実体が、諸観念によるその制約を自己享受することを意味するとしている。

Alfred North Whitehead "Process and Reality: corrected edition" edited by David Ray Griffin and Donald W. Sherburne, The Free Press, New York, ISBN 0-02-934570-7, p.145

For the philosophy of organism, the percipient occasion is its own standard of actuality. If in its knowledge other actual entities appear, it can only be because they conform to its standard of actuality. There can only be evidence of a world of actual entities, if the immediate actual entity discloses them as essential to its own composition. Descartes' notion of an unessential experience of the external world is entirely alien to the organic philosophy. This is the root point of divergence; and is the reason why the organic philosophy has to abandon any approach to the substance-quality notion of actuality. The organic philosophy interprets experience as meaning the 'self-enjoyment of being one among many, and of being one arising out of the composition of many.' Descartes interprets experience as meaning the 'self-enjoyment, by an individual substance, of its qualification by ideas.'

ジル・ドゥルーズ『襞 ライプニッツバロック』(宇野邦一訳、河出書房新社)、p.137-138

把握するものと把握されるもの以外に、把握はさらに三つの性格を呈するだろう。まず第一に主体的形式は、データが主体において表現される仕方なのであって、主体はデータを能動的に把握するのである(感情、評価、計画、意識……)。少なくとも把握が肯定的な場合、この形式においてデータは主体の中に折り畳まれるのであって、形式とはつまり「フィーリング」あるいは様式である。なぜなら、主語がその融合からある種のデータを排除し、こうしてこの排除の主体的形式によってだけみたされるかぎりは、否定的な把握というものも存在するからである。第二に、主体的な目標は、把握における一つのデータから別のデータへの移動、生成変化における一つの把握から別の把握への移動を可能にし、未来をはらんだ現在に過去を導き入れる。最後に、最終段階としての満足、「セルフ-エンジョイメント」は、把握が自分自身のデータでみたされ、主語が、ますます豊かな私的生活に到達しつつ、自己にみたされる仕方を示すのである。これは聖書的、かつまた新プラトン主義的な観念で、イギリス経験論はこれを最も高度な点にまで高めた(とりわけサミュエル・バトラー)。植物は神の栄光を歌いあげる。自分がそこから発生してきた諸要素を強度に観照し、また緊縮させ、この把握において自分自身の生成変化の「セルフ-エンジョイメント」を感じて、なおさら自分で自分をみたすからである。

宇野邦一による訳注 p.134

本書では、ホワイトヘッドの既訳書の訳語を必ずしも踏襲せず、次のような訳語に改めてある。「多岐性」Multiplicity→「多様体」、「選言的な多様性」Disjunctive Diversity→「離接的多様さ」、「連言」Conjunction→「結合」、「結合」Connection→「連結」、「新しさ」Novelty→「新しいもの」、「合生」Concrescence→「融合」、「抱握」Prehension→「把握」、「所与」Datum→「データ」、「結合体」Nexus→「つながり」、「感受(感情)」Feeling→「フィーリング」、「主体的志向」Subjective Aim→「主体的な目標」、「自己享受」Self-Enjoyment→「セルフ-エンジョイメント」、「永遠的客体」Eternal Object→「永遠的対象(永遠の対象)」、「侵入」Ingression→「進入」。

Gilles Deleuze "Le Pli: Leibniz et le baroque" Les Editions De Minuit, p.106-107

Outre le prehendant et le prehende, la prehension presente trois autres caracteres. D'abord, la forme subjective est la maniere dont la datum est exprime dans le sujet, ou dont le sujet prehende activement le datum (emotion, evaluation, projet, conscience...). C'est la forme sous laquelle le datum est plie dans le sujet, "feeling" ou maniere, du moins quand la prehension est positive. Car il y a des prehensions negatives, pour autant que le sujet exclut certains data de sa concrescence, et n'est alors rempli que par la forme subjective de cette exclusion. En second lieu, la visee subjective assure la passage d'un datum a un autre dans une prehension, ou d'une prehension a une autre dans un devenir, et met le passe dans un present gros de futur. Enfin, la satisfaction comme phase finale, le self-enjoyment, marque la facon dont le sujet se remplit de soi, atteignant a une vie privee de plus en plus riche, quand la prehension se remplit de ses propres data. C'est une notion biblique, et aussi neo-platonicienne, que l'empirisme anglais a porte au plus haut point (notamment Samuel Butler). La plante chante la gloire de Dieu, en se remplissant d'autant plus d'ell-meme qu'elle contemple et contracte intensement les elements dont elle procede, et eprouve dans cette prehension le self-enjoyment de son propre devenir.

中公バックス 世界の名著『プロティノス ポルピュリオス プロクロス』(責任編集 田中美知太郎)所収、プロティノス『エネアデス』(田中美知太郎、水地宗明、田之頭安彦訳)、「自然、観照、一者について」p277

では、まじめな態度で考察をすすめる前に、まず、たわむれに次のように語ってみることにしよう。
「この世のなかのものは、理性的な生きものばかりでなく、理性をもたない生きものも植物の生命も、またこれらをはぐくむ大地も、すべてが〈観照〉(テオリア)を求め、これを目指している。そして、すべてはその本性の許す範囲で精一杯の観照をおこない、その成果を収めている。ただし、それぞれの観照の仕方や成果にはちがいがあり、或るものの観照は真実を得ているが、別の或るものの観照は、真実の模像もしくは影を得ているにすぎない」
と。
はたして人は、この世間の常識ではちょっと考えられないことばを、じっと我慢して聞いてくれるだろうか。これがわれわれの仲間うちでの意見表明であれば、たとえ自分の考えをたわむれに述べるようなことがあっても、決してやっかいなことにはならないのであるが……。
それでは、われわれも、いま、たわむれながら観照していることになるのだろうか。
そうなのだ。われわればかりでなく、およそ遊びたわむれている者はみな観照しているのであり、観照を求めながら遊びたわむれているのである。そして、おそらく子供でも大人でも、慰みごとをしているかまじめなことをしているかにかかわらず、だれもが観照をめざして、あるいはたわむれ、あるいはまじめに働いているのであって、実践活動はすべて、その熱意と努力を観照に向けているのである。ただし、〈強制された活動〉はその観照を(内よりも)むしろ外(感性界)に向ける傾向が強いが、〈自由な活動〉とわれわれが称しているものは、この傾向が弱い。だが、そうは言っても、自由な活動も観照を求めておこなわれることにかわりはないのである。