上記と違い、冷静なときのフーコーの認識は…

ミシェル・フーコー「権力と戦略」聞き手:グループ・レヴォルト・ロジーク、大木憲訳、桑田禮彰、福井憲彦山本哲士編『ミシェル・フーコー 1926-1984 権力・知・歴史』(新評論)、p.108-109

ファシズムに走る大衆の欲望ということを肯定する場合にさまたげとなるのは、正確な歴史的分析がそこに欠けている点を、その肯定によっておおい隠してしまうということです。とくにわたしは、ファシズムとは現実には何であったのかということの解明が拒否されれば、全般的な共犯関係に陥ると考えます(この拒否は、ファシズムはいたるところに、とくにわれわれの頭のなかに宿っているのだといった一般化によって行なわれたり、マルクス主義的な図式化によって行なわれるのです)。
ファシズムにたいする分析が行なわれなかったことは、過去30年間におけるもっとも重大な政治的事実のひとつです。ファシズムが、もっぱら告発のために用いられる浮標灯のごときものとされえたのは、この分析の欠落によります。つまり、すべて権力のやり口はファシズムの疑いをかけられ、またまったく同様に大衆は、その欲望においてファシストの疑いをかけられるというわけです。ファシズムに走る大衆の欲望ということを肯定したところで、いまだ解決手段も見出されていない歴史的問題が横たわったままなのです。