フーコーの序文への異論

「長いフランスの歴史のなかではじめて書かれた倫理書」なんて言ってしまって本当に大丈夫なんだろうか。ベルクソンの最後の大著『道徳と宗教の二つの源泉』とかレヴィナスデリダらの一連の著作は「倫理書」に入らないのか。全く理解不可能、私には。

フーコーは余り適当、いい加減なことは言わない人だと思うが、ここではちょっと耳を疑うようなことをいっている。しかも本気らしい。これはなんなのか。

「特定の「読者層」にかぎらず幅広い読者に本書が受け入れられた原因」を倫理の書だったからというふうに推測するのに合理的な根拠が一切ないのは、そのように語るフーコー自身のケースを吟味してみればすぐに分かる。フーコーの場合、『言葉と物』が思いもかけず爆発的に売れてしまい、「菓子パンのように売れるフーコー」などと言われ、著者であるフーコー自身が当惑するということがあった。なぜなら彼は、『言葉と物』を思想史の特定の専門家向けに、狭い読者層を念頭に置いて書いたからだ。それなのにそれが「特定の「読者層」にかぎらず幅広い読者に」「受け入れられ」てしまった。それは別に『言葉と物』が倫理の書であったからではないはずだ。むしろそれは倫理がどうのということとは関係がない。フランスの大衆文化状況が、古い昔ながらの知識人であるフーコーの予想や認識を超えて広がってしまっていたというところに原因を求めるべきだ。実際フーコーは、『言葉と物』が爆発的に売れてしまったという事実、現実を深刻に受け止め(なぜなら彼は基本的に真面目な人だからね)、著述スタイルや主題を大幅に変えていった。つまり、権力論、社会分析に向かった。思想史の専門家としてのみ振る舞うことをやめたのだ。