日本語で歌う冬の旅。なぜこんなに暗いの?

「日本語で歌う冬の旅。なぜこんなに暗いの?」というのは、斎藤晴彦の歌。高橋悠治のピアノでの『冬の旅』の副題だが、先程それではなく菊地雅章ゲイリー・ピーコックポール・モチアンから成るテザード・ムーンの『シャンソン・ド・ピアフ』の冒頭「アコーディオン弾き」を入浴しながら聴いた。何度聴いてもこれは……。以前自分なりに思う最も悲しい音楽ベスト3というのを挙げて、ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲の15番、高橋悠治の『パーセル最後の曲集』、高橋悠治リアルタイム9『別れのために』、ビル・エヴァンスの『ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』を挙げたが(ベスト3じゃなくてベスト4になってしまったが)、斎藤晴彦高橋悠治の『冬の旅』もこの上なく暗い。もともとのシューベルトが暗いということなのだが、それから菊地雅章のこのピアノもあまりにも個性的な輝きを放っている。『スラッシュ・トリオ』第一集冒頭の曲と並ぶ超名演だ。それらは「最も悲しい」というカテゴリーというよりは、もうちょっと別の……UAの"sun"とか"la"と一緒に聴きたくなるようなアレなのですが。

さて寝よう。

サムシング・アバウト・ウォーター

「内面的な、あまりに内面的な」ということで、内面的という形容が当たるかどうかわからないが、昨日一昨日仕事しながら聴いた佐藤允彦富樫雅彦のデュオ『双晶』、藤井郷子『サムシング・アバウト・ウォーター』が大変良かった。特に後者が良かった。ぼくはバップまでのものが好きなわけだが、フリージャズ、フリーインプロヴァイゼーション系の演奏も聴いて楽しい。良かったとか楽しいとかだけでは感想、論評として内容がないが、藤井氏の音楽をそれほどたくさん聴き込んでいるわけではないので……。それはそうだが不思議な印象だな。

土曜日は仕事の後いつものように新宿ディスクユニオンのクラシック館に行き、ハイドンのピアノ・トリオ全集を購入した。全集といっても10枚組で2000円強である。CDも安くなったものだ。まあクラシックにほぼ限られているが。仕事疲れと、出掛ける前に食事を摂ったのであまり空腹を感じず、サーティワンアイスクリームで好みのストロベリーを食べて帰った。

毎度のことながら今度は「デング熱」を巡る世間の、主に反権力サイドの皆さんのわけのわからぬ御意見の数々を読んで、吉本隆明の『マチウ書試論』を思い出した。いろいろな本で出ているが、ぼくが高校生の頃に最初に読み、いまも持っているのは講談社文芸文庫の『マチウ書試論/転向論』である。その初期吉本の代表的な論考についてはいまさら説明する必要もないだろうが、20年くらいずっとこう異論というか違和感を感じてきた。第一に、人間性・人間の条件がこうであるならば(こうであるならばというのは吉本の場合、「関係の絶対性」という彼のタームで指示される憎悪や敵対対立関係、党派性を指す)革命とは何か、とかいわれても、人間性など変わるものではない。第二に、我々はというか少なくともぼくは「革命」というような語彙でそもそも考えないということである。

それはそうだが、その『マチウ書試論』を思い出したのは、人間性がこうであるならば……こうであるならばというのは、吉本のような敵対関係ということではなく、誤認とか錯認の類いのことなんですが、わけのわからぬことを考え出して自ら信じ込んでしまったり、それを擬似宗教のように拡散してしまうということです。例えば、代々木公園でデング熱が感染したと推定され、公園が閉鎖というと、脱原発反戦の集会をやめさせるための陰謀というひとがいる。大真面目に「誰かが蚊を放ったとしか思えない」と堂々と書くひとたちもいるが、失笑を通り越して絶句するほかない。ぽかんと開いた口が塞がらないというか。と或る著名なフリージャーナリスト氏は、デング熱が発見された公園は、東京五輪に合わせて都が野宿者を排除しようとしている順番で並んでいる。これはおかしい……とか、別に陰謀だと「断定」していないがそういうことをおっしゃっていて、これまた眩暈がしたのだが、野宿者、ホームレス排除という目的とデング熱拡大を故意に……。まあこのジャーナリスト氏がということではなく、そういう反権力シミン界隈には、9.11さえも米政府の自作自演だという人々もいるのだから、それから比べればデング熱くらいなんてことはないのだろう。どうしてなんの合理性があって米政府や東京都が自国民や都民を殺傷するのか全く分からないわけだが、そういうこともやる「かもしれない」、その「可能性はゼロではない」権力だというような御理解だということで。「可能性はゼロではない」とか疑って疑えないことはないとかいうことでしたら、まあ大抵のことはそうですけれどもね。だけれども、一々その無限の、天空が落ちて降ってくるかもしれないというような「杞憂」の可能性も含めて考慮して備えて生きるほど我々は暇ではないのですよ。大抵の場合はね。それから、ほんの少し考えてみたら、デング熱の感染力や危険性がどの程度なのかということはあるが、わざと首都、五輪開催地でそんなことをしたら外国人から敬遠されませんかw アスリートとか。競技に参加する選手がこのためにこないなんてことはよもやないとは言ってもね。どうですかね。目的と手段、コストとベネフィット、その合理性はどうなんでしょうか。ぼく自身は反権力シミンにとことん反対で安倍政権を断固支持している、というわけではないので、これ以上は申しませんが、そういう「可能性はゼロではない」から警鐘を鳴らすといった「狼少年」、狼少女・おばさんたちに賛同することはあり得ません。

ちょっと回り道をしたが、要するに人間性が上述のようなものであるならば、革命なんて最初から関係ないが、反権力とか抜かしても一体なんなんだろうか。明治の「血税一揆」みたいなもんですか。まあ血税一揆は、ホントに生き血を抜かれるという誤認だったとしても有意義だったのだという整理をするひとが多いだろうと思うが、2014年の日本の場合はどうですか。9.11自作自演説を唱えているきくちゆみさんたちだけでなく、堤未果さんらのジャーナリストの皆さんの御意見も含め、もはやとうの昔からその手の皆さんのおっしゃることは少しも信用信頼しなくなってるけどね。ぼくは。

笑うショーペンハウアー

ラルフ・ヴィーナー編著・酒田健一訳『笑うショーペンハウアー』(白水社)を讀み始め、感銘を受ける。

この核心とはすなわち、アルトゥア・ショーペンハウアーはその著作のすべてにおいて骨の髄からのユーモア人間として立ち現われているということだ。思わず頬が弛むほど面白い見解は数知れない。この私も彼の著作と始めて出会って以来──もうかれこれ50年にもなろうが──彼の事物への対処の仕方にはつねに賛嘆の念をあらたにしてきた。的を得た警句、ときには皮肉な比較対照、ときとして無遠慮かつ辛辣にわたる発言、こうしたすべてが、広く世間で通っているペシミストとしての姿とは似ても似つかぬショーペンハウアー像をつくりあげるのだ。

彼の哲学をどう評価するかはご自由だ。彼の学説と彼の行状との矛盾(哲学者とて聖者ではない)をあげつらうにせよ、政治的判断の過ち(たとえば1848年の革命に対する彼の態度)を指摘するにせよ、彼を《女性の敵》と呼ぶにせよ──くどいようだがなんとでもお好きになさればよい。だがこれだけは誰の眼にも明らかだということがひとつある。彼が著述家として──言葉の大家として──すべての哲学者中最高の地位のひとつを占めているということだ。彼はまるで鍵盤楽器のように言葉をあやつる。われわれが若い学生時代にショーペンハウアーを相手に自分を鍛えていたころ、われわれに感銘を与えたのは、なによりもまず彼の言葉であり、そして──奇妙に聞こえるかも知れないが──なかんずく彼の機知であったのだ。

これは「序にかえて」の一部。上掲書の7ページからの引用である。實に面白い。

そうしていつも毎度のように2ちゃんねるに応答するのも無意味ではあるが、彼らは破綻した日本語で破綻した意見・感想ばかり書いている。だが、素朴なおバカを装ったところで、そのへんのごく普通の市民や千葉っ子が鎌田哲哉の名前など知っているのかという疑問を当然抱かないわけには参らない。昨晩ちょっといま日本で知られた脱原発活動家の或る人を名前を出さずに揶揄したが、頑張っている彼を「守る」ためにくだらないクズみたいな連中がしゃしゃり出てきてつまらないことをするなんてことは十二分にあり得ることである。私はとことん報復するが、その報復がどこにまで及ぶのかというのはもはや申し上げるまでもなく明らかであろう。

笑うショーペンハウアー

笑うショーペンハウアー

詩は滅びたが、しかし人々は……

起床。猫飛ニャン助ことスガ秀実氏のTwitterで、氏が半世紀前の友人と再会したことが書かれていた。友人は当時『現代詩手帖』か何かに投稿して第一席に入選したがその後筆を折ったと。スガ氏は友人の選択は正解だったと思う、詩が滅びたということを知らぬ人間が多いと記している。

○○は終わったとか滅びたというような言い方は多く、ぼく自身もついなんの氣なしに口にしてしまうことも多いが、果たしてそうなのかと訝ることも多い。詩、現代詩がどうかは知らないが、クラシックは滅びた、ジャズは滅びた、哲学は終わったというような言い方は多いわけだ。政治関係のことはいまは主題の範囲外だが、矢部史郎氏らのおっしゃるように左翼は武士だとしても、江戸時代の(泰平の世の)侍ではないか、つまり官僚化、サラリーマン化するしか生き延びようがなく、現実の戦さがないから様式美をスノビズム的に磨き上げるしかない存在なのではないか、ということを数日前書いた。江戸時代の武士ならばまだいい。支配階層でありヘゲモニーを握っていたから。明治の旧士族だったら悲惨である。武士の商法。プライドは高いが、もはや権力を握っておらず、「新平民」という差別の構造は残ったとしても、自分たちが支配層ではないという現実を受け入れられず、合理的発想や利害損得の計算ができず商売も失敗。零落というコースである。そうして世界的にみてどうかといえば自分の乏しい知見の範囲ではそうともいえないのではないかと思うが、近代日本に話を限れば西南戦争の旧士族の叛乱以来、また、板垣退助らの自由民権運動以来、不平士族にルーツがある者たちの怨恨や鬱屈という要素を考慮すべきではないかとも思える。

「いまは主題の範囲外だが」と書きながらつい長々と書いてしまったが、要するに政治的左翼がどうであるかは知りませんが、詩であるとか音楽とか哲学だったら、その歴史において多くのものが出尽くしているとか、既に無数の偉い人々がいる、いたということとは関係なく自由に楽しめばいいのではないか、という素人(アマチュア)的な発想が根本にある。ものすごい歴史的意義とか歴史的価値とかを自分自身で求めてどうするのだろうかとしか思わない。

これも有名な話だが、コジェーヴというロシア出身のヘーゲリアンが戦前戦中にフランスでヘーゲルを講義したが、彼はヘーゲルで哲学は終わったという自説に忠実に、もはや哲学などやっても無意味と戦後は外交官に転身したそうである。○○は終わったから、滅びたから、今後は××というのは合理的発想なのだろうか。自分自身で完結しない客観的な社会的評価や歴史との関連ではそうなのかもしれないが、そもそもその○○が滅んだというのはどうなのかな。

ぼく自身は特に計算などしない人間である。最近少々ショーペンハウアーを再讀しているが、別にごく最近ショーペンハウアー主義者に転向したわけではなく、何年前か忘れたがあかねで真哲君にあなたの哲学というか思想というか、要するに意見は何かと訊かれて、「人生は無意味にして苦痛である」と答えたら、面白くもない意見だと云われたのですが、確かにつまらない意見だろう。それはそうですが、つまらないものではあっても自分の意見だからな。そうしてとことんエゴイストなので、自分の意見なり自分が作ったものだけが大事なんですよ。ぼくはね。

帰宅、讀書

重苦しい身の毛もよだつような夢のなかで、恐怖が最高潮に達すると、ほかならぬこの恐怖そのものが、われわれをめざめさせ、それによって夜のあの怪物はすべて退散する。それと同じことが、人生の夢でも起こるのだ。不安が最高潮に達して、われわれにこの夢を破らざるをえないように強いるときに。

白水社から出ている『ショーペンハウアー全集』第13巻、哲学小品集め(IV)、秋山英夫訳の109ページだが、『自殺について』として岩波文庫などにも入っているものの一部だが、ぼくの持っている翻訳は古いので、讀みやすい達意の文章で讀めるのは有難い。上記の比喩で彼が何を云わんとしているかは明白だが、前半の政治や法についてのリアリストというよりもペシミスティックな意見と併せ讀むと、どうもホッブズと比べたくなってしまう。「恐怖」の哲学者として、ということなのですが。

さてごはん。

ショーペンハウアー先生

いずれの人の一生も、もしこれを全体として一般的に眺めそのなかから著しい特徴だけを抜き出してみるなら、本来それはいつも一個の悲劇である。ところがこれを一つ一つ仔細に立ち入って見ていくと、喜劇の性格を帯びてくる。だいたい日ごとの営みや煩労、時々刻々にくるせわしない嘲弄、毎週訪れる新しい願いや恐れ、各時間ごとにある厄介、こういったものは悪ふざけをいつも企てている偶然によるもので、まったくのところ喜劇の場面というほかはないものだからである。ところが願いごとはけっして満たされないし、努力は水の泡となるし、希望は無慈悲に運命に踏みつぶされるし、一生は全体として不幸な誤算であるし、おまけに悩みは年齢ごとに多くなって最後に死がくるというのであれば、これはなんとしても悲劇である。運命はそのうえわれわれの生存の悲嘆にさらに嘲笑を加えんとするがごとく、われわれの人生は悲劇のあらゆる苦しみを背負っていなくてはならぬというのに、その際、われわれは悲劇的人物としての威厳を主張することすらできないのであって、生活のうえの広範囲な瑣末事のなかで、いやおうなしに愚鈍な喜劇俳優の役を演じなければならない始末なのだ。

中公バックス『世界の名著』第45巻のショーペンハウアー西尾幹二の責任編集。西尾幹二の翻訳で『意志と表象としての世界』。576ページだが、實に深いな。

Five birds and a monk

"Five birds and a monk"というオムニバス盤を聴く。アート・ペッパージョニー・グリフィンの音源が入っているようだ。今日から図書館でショーペンハウアー全集を借りて讀むことにする。楽しみだ。2ちゃんねるでは相変わらず「コピペだらけのクソブログ」とか貶されているが、コピペではなく引用というのですよ(笑)。そうしてなんら面白い芸もないかもしれないが、奇を衒って珍説を開陳する趣味もないもんですからwww というわけで今日の引用行こうか。

理性、歴史、経験の教えるところによれば、あらゆる政治的社会ははるかに不正確で、不規則な起原を持っている。国家的事件において、人民の同意が最も尊重されなかった時期を選ぶとすれば、それはまさしく新しい政府が樹立されたときであろう。すでに確立した政体のもとでは、人民の以降も多くの場合考慮される。けれども、革命・征服・社会的動乱の荒れ狂う時期には、議論を決するものはふつう軍事力か、それとも政治的な策謀である。

これは小西嘉四郎氏が訳したヒュームの『原始契約について』という素晴らしい文章だ。大槻春彦責任編集の中公バックス『世界の名著』の第32巻の544ページだ。このエッセイは「古代文明諸国民の間では、反逆の罪は、新奇なことを企てるという、共通の言葉で表現されていた」と結ばれているのはいつも御紹介している通りだが、ぼくは別に転向したり変節したわけではない。もともとイギリス経験論やアメリカのプラグマティズムが大好きなのだが、まあそうすると自称「革命的」な人士からよくからかわれたりバカにされたもんだ。それこそ大学の学部時代からね。そういうマルクス主義者やアナーキストの学生さんたちがいまどこで何をやってるのか知らない。知りたくもないね。人はそれぞれ自分に適当な、ふさわしい意見ってもんがあるのさ。