サムシング・アバウト・ウォーター

「内面的な、あまりに内面的な」ということで、内面的という形容が当たるかどうかわからないが、昨日一昨日仕事しながら聴いた佐藤允彦富樫雅彦のデュオ『双晶』、藤井郷子『サムシング・アバウト・ウォーター』が大変良かった。特に後者が良かった。ぼくはバップまでのものが好きなわけだが、フリージャズ、フリーインプロヴァイゼーション系の演奏も聴いて楽しい。良かったとか楽しいとかだけでは感想、論評として内容がないが、藤井氏の音楽をそれほどたくさん聴き込んでいるわけではないので……。それはそうだが不思議な印象だな。

土曜日は仕事の後いつものように新宿ディスクユニオンのクラシック館に行き、ハイドンのピアノ・トリオ全集を購入した。全集といっても10枚組で2000円強である。CDも安くなったものだ。まあクラシックにほぼ限られているが。仕事疲れと、出掛ける前に食事を摂ったのであまり空腹を感じず、サーティワンアイスクリームで好みのストロベリーを食べて帰った。

毎度のことながら今度は「デング熱」を巡る世間の、主に反権力サイドの皆さんのわけのわからぬ御意見の数々を読んで、吉本隆明の『マチウ書試論』を思い出した。いろいろな本で出ているが、ぼくが高校生の頃に最初に読み、いまも持っているのは講談社文芸文庫の『マチウ書試論/転向論』である。その初期吉本の代表的な論考についてはいまさら説明する必要もないだろうが、20年くらいずっとこう異論というか違和感を感じてきた。第一に、人間性・人間の条件がこうであるならば(こうであるならばというのは吉本の場合、「関係の絶対性」という彼のタームで指示される憎悪や敵対対立関係、党派性を指す)革命とは何か、とかいわれても、人間性など変わるものではない。第二に、我々はというか少なくともぼくは「革命」というような語彙でそもそも考えないということである。

それはそうだが、その『マチウ書試論』を思い出したのは、人間性がこうであるならば……こうであるならばというのは、吉本のような敵対関係ということではなく、誤認とか錯認の類いのことなんですが、わけのわからぬことを考え出して自ら信じ込んでしまったり、それを擬似宗教のように拡散してしまうということです。例えば、代々木公園でデング熱が感染したと推定され、公園が閉鎖というと、脱原発反戦の集会をやめさせるための陰謀というひとがいる。大真面目に「誰かが蚊を放ったとしか思えない」と堂々と書くひとたちもいるが、失笑を通り越して絶句するほかない。ぽかんと開いた口が塞がらないというか。と或る著名なフリージャーナリスト氏は、デング熱が発見された公園は、東京五輪に合わせて都が野宿者を排除しようとしている順番で並んでいる。これはおかしい……とか、別に陰謀だと「断定」していないがそういうことをおっしゃっていて、これまた眩暈がしたのだが、野宿者、ホームレス排除という目的とデング熱拡大を故意に……。まあこのジャーナリスト氏がということではなく、そういう反権力シミン界隈には、9.11さえも米政府の自作自演だという人々もいるのだから、それから比べればデング熱くらいなんてことはないのだろう。どうしてなんの合理性があって米政府や東京都が自国民や都民を殺傷するのか全く分からないわけだが、そういうこともやる「かもしれない」、その「可能性はゼロではない」権力だというような御理解だということで。「可能性はゼロではない」とか疑って疑えないことはないとかいうことでしたら、まあ大抵のことはそうですけれどもね。だけれども、一々その無限の、天空が落ちて降ってくるかもしれないというような「杞憂」の可能性も含めて考慮して備えて生きるほど我々は暇ではないのですよ。大抵の場合はね。それから、ほんの少し考えてみたら、デング熱の感染力や危険性がどの程度なのかということはあるが、わざと首都、五輪開催地でそんなことをしたら外国人から敬遠されませんかw アスリートとか。競技に参加する選手がこのためにこないなんてことはよもやないとは言ってもね。どうですかね。目的と手段、コストとベネフィット、その合理性はどうなんでしょうか。ぼく自身は反権力シミンにとことん反対で安倍政権を断固支持している、というわけではないので、これ以上は申しませんが、そういう「可能性はゼロではない」から警鐘を鳴らすといった「狼少年」、狼少女・おばさんたちに賛同することはあり得ません。

ちょっと回り道をしたが、要するに人間性が上述のようなものであるならば、革命なんて最初から関係ないが、反権力とか抜かしても一体なんなんだろうか。明治の「血税一揆」みたいなもんですか。まあ血税一揆は、ホントに生き血を抜かれるという誤認だったとしても有意義だったのだという整理をするひとが多いだろうと思うが、2014年の日本の場合はどうですか。9.11自作自演説を唱えているきくちゆみさんたちだけでなく、堤未果さんらのジャーナリストの皆さんの御意見も含め、もはやとうの昔からその手の皆さんのおっしゃることは少しも信用信頼しなくなってるけどね。ぼくは。