笑うショーペンハウアー

ラルフ・ヴィーナー編著・酒田健一訳『笑うショーペンハウアー』(白水社)を讀み始め、感銘を受ける。

この核心とはすなわち、アルトゥア・ショーペンハウアーはその著作のすべてにおいて骨の髄からのユーモア人間として立ち現われているということだ。思わず頬が弛むほど面白い見解は数知れない。この私も彼の著作と始めて出会って以来──もうかれこれ50年にもなろうが──彼の事物への対処の仕方にはつねに賛嘆の念をあらたにしてきた。的を得た警句、ときには皮肉な比較対照、ときとして無遠慮かつ辛辣にわたる発言、こうしたすべてが、広く世間で通っているペシミストとしての姿とは似ても似つかぬショーペンハウアー像をつくりあげるのだ。

彼の哲学をどう評価するかはご自由だ。彼の学説と彼の行状との矛盾(哲学者とて聖者ではない)をあげつらうにせよ、政治的判断の過ち(たとえば1848年の革命に対する彼の態度)を指摘するにせよ、彼を《女性の敵》と呼ぶにせよ──くどいようだがなんとでもお好きになさればよい。だがこれだけは誰の眼にも明らかだということがひとつある。彼が著述家として──言葉の大家として──すべての哲学者中最高の地位のひとつを占めているということだ。彼はまるで鍵盤楽器のように言葉をあやつる。われわれが若い学生時代にショーペンハウアーを相手に自分を鍛えていたころ、われわれに感銘を与えたのは、なによりもまず彼の言葉であり、そして──奇妙に聞こえるかも知れないが──なかんずく彼の機知であったのだ。

これは「序にかえて」の一部。上掲書の7ページからの引用である。實に面白い。

そうしていつも毎度のように2ちゃんねるに応答するのも無意味ではあるが、彼らは破綻した日本語で破綻した意見・感想ばかり書いている。だが、素朴なおバカを装ったところで、そのへんのごく普通の市民や千葉っ子が鎌田哲哉の名前など知っているのかという疑問を当然抱かないわけには参らない。昨晩ちょっといま日本で知られた脱原発活動家の或る人を名前を出さずに揶揄したが、頑張っている彼を「守る」ためにくだらないクズみたいな連中がしゃしゃり出てきてつまらないことをするなんてことは十二分にあり得ることである。私はとことん報復するが、その報復がどこにまで及ぶのかというのはもはや申し上げるまでもなく明らかであろう。

笑うショーペンハウアー

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