詩は滅びたが、しかし人々は……

起床。猫飛ニャン助ことスガ秀実氏のTwitterで、氏が半世紀前の友人と再会したことが書かれていた。友人は当時『現代詩手帖』か何かに投稿して第一席に入選したがその後筆を折ったと。スガ氏は友人の選択は正解だったと思う、詩が滅びたということを知らぬ人間が多いと記している。

○○は終わったとか滅びたというような言い方は多く、ぼく自身もついなんの氣なしに口にしてしまうことも多いが、果たしてそうなのかと訝ることも多い。詩、現代詩がどうかは知らないが、クラシックは滅びた、ジャズは滅びた、哲学は終わったというような言い方は多いわけだ。政治関係のことはいまは主題の範囲外だが、矢部史郎氏らのおっしゃるように左翼は武士だとしても、江戸時代の(泰平の世の)侍ではないか、つまり官僚化、サラリーマン化するしか生き延びようがなく、現実の戦さがないから様式美をスノビズム的に磨き上げるしかない存在なのではないか、ということを数日前書いた。江戸時代の武士ならばまだいい。支配階層でありヘゲモニーを握っていたから。明治の旧士族だったら悲惨である。武士の商法。プライドは高いが、もはや権力を握っておらず、「新平民」という差別の構造は残ったとしても、自分たちが支配層ではないという現実を受け入れられず、合理的発想や利害損得の計算ができず商売も失敗。零落というコースである。そうして世界的にみてどうかといえば自分の乏しい知見の範囲ではそうともいえないのではないかと思うが、近代日本に話を限れば西南戦争の旧士族の叛乱以来、また、板垣退助らの自由民権運動以来、不平士族にルーツがある者たちの怨恨や鬱屈という要素を考慮すべきではないかとも思える。

「いまは主題の範囲外だが」と書きながらつい長々と書いてしまったが、要するに政治的左翼がどうであるかは知りませんが、詩であるとか音楽とか哲学だったら、その歴史において多くのものが出尽くしているとか、既に無数の偉い人々がいる、いたということとは関係なく自由に楽しめばいいのではないか、という素人(アマチュア)的な発想が根本にある。ものすごい歴史的意義とか歴史的価値とかを自分自身で求めてどうするのだろうかとしか思わない。

これも有名な話だが、コジェーヴというロシア出身のヘーゲリアンが戦前戦中にフランスでヘーゲルを講義したが、彼はヘーゲルで哲学は終わったという自説に忠実に、もはや哲学などやっても無意味と戦後は外交官に転身したそうである。○○は終わったから、滅びたから、今後は××というのは合理的発想なのだろうか。自分自身で完結しない客観的な社会的評価や歴史との関連ではそうなのかもしれないが、そもそもその○○が滅んだというのはどうなのかな。

ぼく自身は特に計算などしない人間である。最近少々ショーペンハウアーを再讀しているが、別にごく最近ショーペンハウアー主義者に転向したわけではなく、何年前か忘れたがあかねで真哲君にあなたの哲学というか思想というか、要するに意見は何かと訊かれて、「人生は無意味にして苦痛である」と答えたら、面白くもない意見だと云われたのですが、確かにつまらない意見だろう。それはそうですが、つまらないものではあっても自分の意見だからな。そうしてとことんエゴイストなので、自分の意見なり自分が作ったものだけが大事なんですよ。ぼくはね。