『弱さの思想』、『エミール』

形式を整えたり何度も推敲して構成を整備するのが苦手なのでいつもながらの書き流しだが、随筆というのは筆に随(したが)うと讀み下すそうだ。まず、ヘンデルの『メサイア』から『ハレルヤ』、オスカー・ピーターソンの『ソロ!!』を聴いたほか、いま、マーカス・ロバーツの『ガーシュウィン・フォー・ラヴァーズ』を聴いている。マーカス・ロバーツはウィントン・マルサリスのグループのピアニストとして注目された盲目の黒人。それから田原総一朗が20人の若手論客と対談して『日本を変える! 若手論客20の提言』(潮出版社)を讀んだが、これまた大変刺激的で興味深かった。だが、書きたかったのは次のことである。

これも有名な話ですが、鶴見さんの子どもの友だちが自殺したので、子どもが「自殺はしていいものか」と鶴見さんに聞いたら、彼は即答した。「君が戦争に行くようなことがあって、もし女性を強姦したり、だれかを殺すような事態になったら自殺しなさい」と。普通、そういうことは言わないですよ。「自殺はいけないよ」とか言っても、こういう時に自殺しなさい、とはね。でも、鶴見さんは自分がそうしようと思っていたからそう答えたんだと思います。

これは辻信一さんと高橋源一郎さんの対談『弱さの思想 たそがれを抱きしめる』(大月書店)の155ページで高橋さんが紹介している鶴見俊輔氏のエピソードだが、ぼくはすぐにルソーの『エミール』の最初のほうの或る一節を思い出した。

あるスパルタの婦人は、五人の男の子を戦場に送った。そして戦闘の知らせを待っていた。知らせの奴隷が到着した。彼女はふるえながら戦闘の様子をたずねた。「五人のお子さまは戦死なさいました。」「いやしい奴隷よ、わたしはそんなことをおまえにきいたのか。」「わが軍は勝利を得ました。」母親は神殿にかけつけて、神々に感謝を捧げた。これが市民の妻だ。

今野一雄訳『エミール』(岩波文庫)の上巻の28ページである。昔最初に讀んだときから、非常に厭な印象を持っていたのですぐに思い出したということでしたが、前後を讀み返してみて幾つかのことに氣が付いた。

まず、周知のようにルソーには「自然人」の理想と社会状態との複雑な緊張関係がある。第二に、上述の古代的な市民的徳は近代において決定的に喪われ不可能になったと彼は明言しているのだ。ルソーの断言や極論には飛躍や不合理も余りにも多く、どういう推論過程でそういう意見が出てきたのか不明な場合も多いので、一々金科玉条のように聖典視することはできないとしてもである。上述のくだりに続けて彼はこう書いている。

社会状態にあって自然の感情の優越性をもちつづけようとする人は、なにを望んでいいかわからない。たえず矛盾した気持ちをいだいて、いつも自分の好みと義務とのあいだを動揺して、けっして人間にも市民にもなれない。自分にとってもほかの人にとっても役にたつ人間になれない。それが現代の人間、フランス人、イギリス人、ブルジョワだ。そんなものはなににもなれない。

それから29ページ。

公共教育はもう存在しないし、存在することもできない。祖国のないところには、市民はありえないからだ。「祖国」と「市民」という二つのことばは近代語から抹殺されるべきだ。わたしはその理由をよく知っているが、それは言いたくない。それはわたしの主題に関係ないことだ。

本人が「言いたくない」と明言を避けているものを憶測や推測を続けてもしようがないだろうとは思うが、古代のありようとはもちろん違ってはいるとしても、近現代においても「祖国」なり愛国心、それから「市民」というか国民の義務として強調されることとそれへの懐疑・抵抗のせめぎあいは幾らでもあることではないか、と思わざるを得ない。

どうしてかつての理想や理念が当時(18世紀)にすべて不可能になってしまったと彼がみなしているのかは何度讀んでもすっきりしない。しばらく讀み続けると、どうも現代の読者だったらどうみても「反フェミニズム」的な意見としか思えないくだりにぶつかる。要するに子どもを産んだ女性は母親として子育てに専念するという義務を果たすべきだ、というオヤジ的な説教だが、それだけならよくあるアンチフェミの御意見(今も昔も)と思うが、彼は言い添えている。

むだな説教。たとえ世間の快楽にあきたとしても、人々はけっしてこういう楽しみに帰ってくることはあるまい。女性は母になることをやめた。女性はもう母にはならないだろう。なろうともしないのだ。たとえなろうとしても、なかなかなれないだろう。反対の習慣ができあがっているこんにちでは、女性は自分の周囲にいるあらゆる女性の反対とたたかわなければなるまい。そういう女性は、自分で示したこともないし、従うことも欲しない手本に対抗するために一致団結しているのだ。

これは訳書40ページの最後の部分だが、彼にとっていささか保守的とも思える市民的徳の理想、女性の義務という理想は既に決定的に喪われ、「説教」は「むだ」なものでしかないという諦念とともに綴られているわけで、そういうところにはむしろ今日であれば保守に属する人々の論調に似たものを感じないわけにはいかない。ちなみにルソーは、母親がすすんで子どもを自分で育てることになるだけで、風儀はひとりでに改まり、国は人口がふえてくる、と述べている。どうやらそういう意味での「ルソー主義者」は政府にも多いようである。

エミール〈上〉 (岩波文庫)

エミール〈上〉 (岩波文庫)

The James Bond Theme

少々ピアノを弾いて寝る前のお風呂だが、ジョン・ゾーンのグループの演奏でジェームズ・ボンドのテーマを聴く。CDで聴いて、それからYouTube。今日というか昨日もいろいろ楽しかったというか、特に生産的で有意義なことはなかったが、昭和歌謡を中心に本当にいろいろと聴いたのだった。それからまあ、茶坊主根性というか、ついつい誰からも頼まれていないのに無意味にお道化てみせる癖、習慣が抜けない。そういう軽薄さってのは終生変わらないんだろうな、と思いつつ、重厚にならなくてもいいんだけど、真面目とか何だとかにならなくてもいいが、もう40手前ですぜ。ワナビーアーチストのクズ、ダメ人間として生きてきたわけだが、これからもそうだが、そうはいっても無意味な徒労はやめて、本質的なというか自分がやりたいことをやらないと。いつもそう思うのだが、なかなかね。

アダージェット

夕食を摂りながらバド・パウエルブルーノート第3作目『バド!』を聴く。『ブルー・パール』が特にいいですね。お風呂沸かして入浴しながら、そうして上がってからも、『ブルーノ・ワルターの芸術 永遠のマーラー名演集』という4枚組の1枚目を聴く。ラインナップは、交響曲 第5番 嬰ハ短調〜アダージェット(録音:1935年1月19日 ウィーン、楽友協会ホール)/リュッケルトの詩による五つの歌〜私はこの世に忘れられ(ライク録音:1936年5月24日 ウィーン、楽友協会ホール)/大地の歌(ライヴ録音:1936年5月24日 ウィーン、楽友協会ホール)となっている。NAXOS Historical 8.11085という番号がつけられたディスクらしい。聴き終わったら菊地雅章ゲイリー・ピーコックポール・モチアンによるテザード・ムーンの『シャンソン・ド・ピアフ』とか、中谷美紀の『エアーポケット』(アルバム "miki")などを聴こうかなと思う。鶴田浩二の『赤と黒のブルース』とか。

魔界の裁き

朝の讀書で志茂田景樹『魔界の裁き』(徳間文庫)。1988年の作品らしい。二和病院と京葉銀行でちょこっと用事済ませて帰ってきたが、田村夏樹がトランペットで参加するグループGato Libreの"Nomad"、菊地雅章 with Greg Osby "Ko Project"を聴く。そういえば先週は梶山季之『美男奴隷』(光文社カッパノベルズ、昭和44年)を讀み返したんだった。昭和44年というと1969年だよね。こちらも面白かった。

魔界の裁き (徳間文庫)

魔界の裁き (徳間文庫)

Hip Soul

シャーリー・スコットの『ヒップ・ソウル』を聴きながらリブレ京成へ。ウエルシアにも寄るが、消防庁の「もういいかい 火を消すまでは まあだだよ」というポスターは警視庁の「消すまでは 心の警報 オンのまま」と双璧だなw

ヒップ・ソウル

ヒップ・ソウル

みな殺しの森

さいとう・たかをのSPコミックス『ゴルゴ13』の13巻『みな殺しの森』を再讀。何度讀んでも面白い。やはり斎藤貴男よりさいとう・たかをという感じだ。

ゴルゴ13 (13) (SPコミックス)

ゴルゴ13 (13) (SPコミックス)

夏の終わりのト短調

Vienna Master Seriesというバッタ物でWolfgang Amadeus Mozart, Symphonien Nr.16, 18 und 25、それからSymphonien Nr.35 (Haffner) und Nr.38 (Prager)を聴く。Mozart Festival Orchestra, Dirg./Cond.: Alberto Lizzioとクレジットされているが、バッタ物だというのは、ネットで調べたらどうもクレジットされている指揮者やオケが実在しないとか、または実際には演奏していないということで、そういう意味で珍しいものだ。図書館の行き帰りとか近所のスーパーへの往復の道すがら聴いていたのだが、特に25番のト短調。ぼくも多くのひとと同じように映画『アマデウス』で知って好きになったのだが、これ以外にはCDでは(上のもの以外は)ワルター指揮ウィーン・フィルロマン主義が濃厚な演奏しか持っていないので、もうちょっと古典的というか別の解釈のものも聴きたいが、とりあえず上述のCDの演奏のほかYouTubeカール・ベームのを聴いた。

図書館では中島岳志さんの『「リベラル保守」宣言』(新潮社)などを借りてきて読み始めるが、冒頭中島さんが西部邁から強い衝撃と影響を受けたというくだりに驚く。そうして少しずつ読み進めるが、Twitterで某民俗学者氏であるとも噂されるking-biscuit氏などが批判していたと思うし、週刊誌でもいま名前ど忘れしたが、よくテレビの討論番組や政治番組などに出てくる保守の評論家が「リベラル保守」というのは羊頭狗肉、擬装した左派がリベラルを僭称し、さらに保守を僭称している、迷惑だという批難を書いていた。ぼくはその評論家のような意味での純粋な保守とも違うと思うが、中島さんの著書を少しずつ拝読してそういう印象を持った、というか、中島さんは保守は漸進的な社会改革を目指すとおっしゃるのだから、現実問題として広い意味での左派・リベラルなのではないか。大体広義の左派といっても、そもそもマルクス主義が移入される以前の明治からフランスに範を取り急進的に改革したい勢力と、イギリスに範を取る漸進主義者がいた。他方明治政府自身はドイツに範を……なんて高校の教科書みたいな話はやめよう。

ほかに長与善郎(小説を読んだことはないが白樺派の作家だとのこと)『ショーペンハウエルの散歩』(河出書房新社)を読むが、どこかで読んだ記憶のあるショーペンハウアーが革命運動弾圧の報を聞いて小躍りして喜んだというエピソードは見当たらなかったものの、ぼくなりにイメージする保守反動派というのはショーペンハウアーのようなものなのだが。まだきちんと隅から隅まで読んでないが齋藤智志/高橋陽一郎/板橋有仁編『ショーペンハウアー読本』(法政大学出版局)も借りてきた。

ぼくは最近というか3.11以降著しく保守化しているものの、そうはいっても真の保守とか典型的な保守だというつもりはない。別に何も「擬装」もしていないしする必要もないので、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いといつもはっきり申し上げているが、保守派や右翼・右派が(鈴木邦男さんのような例外を除いて)毛嫌いしそうな福島みずほさん(編)『みんなの憲法24条』(明石書店)などもこれはお隣りの鎌ヶ谷の図書館から借りてきて愛読している。そういう意味ではぼくも中島さんがおっしゃるような漸進主義的改革に近いのかもしれない。というのは、ごく普通の議会制民主主義とか、または人権などの近代主義的、自由主義的立場が微温的だから、もっと急進的なものをという主張や勢力がかつてあったし、いまもあるからだが。そういう構図や思想的、政治的対立構造の地図、図式、図表は誰にでもわかっていることだと思うが、漸進主義的な改革、比較的左派の側だったら社会民主主義的な改革勢力があったとすると、そういうものは欺瞞だからより急進的な革命をという意見があった。冷戦終結前も自由主義プラス民主主義、議会、市場、人権などは欺瞞というか擬制なのだと強く批難する左派左翼勢力が国内外に存在している。「新自由主義」を批判するということで、例えばぼくは昔ドゥルーズガタリの関連で『豚として生き考える』というフランス語の時事評論の本を購入して少々読んだことがあるが、その筆者は専門の政治評論家とか政治学者とか活動家ではなく、確か数学者か自然科学者である。そういう人が極左的な(というのは別に「公安用語」ということではなく、フランス語のゴーシストとか、英語だったらultra-leftというのか? extremeなというか。そういうものを指してそう申し上げたいのだが)ドゥルーズ=ガタリなどなど「68年革命思想」に熱狂的に憧れ・帰依し、冷戦終結直後の状況で自由主義プラス民主主義を強く批判していたのだが、30年ほど経過した現在もとりわけ原則主義的、原則論的な左派はそういう立場からそういう議論を依然として強調している。別に間違いだとはいわないし、特に見識もデータもないぼくにそんなことを申し上げる資格もないのだが、自分からみればそれはもはや「信仰」でしかないようにみえる。そうして「信仰」なのであれば、その信仰を誰にも強制する権利はないと申し上げるしかない。

夏のおわりのト短調 (白泉社文庫)

夏のおわりのト短調 (白泉社文庫)