夏の終わりのト短調

Vienna Master Seriesというバッタ物でWolfgang Amadeus Mozart, Symphonien Nr.16, 18 und 25、それからSymphonien Nr.35 (Haffner) und Nr.38 (Prager)を聴く。Mozart Festival Orchestra, Dirg./Cond.: Alberto Lizzioとクレジットされているが、バッタ物だというのは、ネットで調べたらどうもクレジットされている指揮者やオケが実在しないとか、または実際には演奏していないということで、そういう意味で珍しいものだ。図書館の行き帰りとか近所のスーパーへの往復の道すがら聴いていたのだが、特に25番のト短調。ぼくも多くのひとと同じように映画『アマデウス』で知って好きになったのだが、これ以外にはCDでは(上のもの以外は)ワルター指揮ウィーン・フィルロマン主義が濃厚な演奏しか持っていないので、もうちょっと古典的というか別の解釈のものも聴きたいが、とりあえず上述のCDの演奏のほかYouTubeカール・ベームのを聴いた。

図書館では中島岳志さんの『「リベラル保守」宣言』(新潮社)などを借りてきて読み始めるが、冒頭中島さんが西部邁から強い衝撃と影響を受けたというくだりに驚く。そうして少しずつ読み進めるが、Twitterで某民俗学者氏であるとも噂されるking-biscuit氏などが批判していたと思うし、週刊誌でもいま名前ど忘れしたが、よくテレビの討論番組や政治番組などに出てくる保守の評論家が「リベラル保守」というのは羊頭狗肉、擬装した左派がリベラルを僭称し、さらに保守を僭称している、迷惑だという批難を書いていた。ぼくはその評論家のような意味での純粋な保守とも違うと思うが、中島さんの著書を少しずつ拝読してそういう印象を持った、というか、中島さんは保守は漸進的な社会改革を目指すとおっしゃるのだから、現実問題として広い意味での左派・リベラルなのではないか。大体広義の左派といっても、そもそもマルクス主義が移入される以前の明治からフランスに範を取り急進的に改革したい勢力と、イギリスに範を取る漸進主義者がいた。他方明治政府自身はドイツに範を……なんて高校の教科書みたいな話はやめよう。

ほかに長与善郎(小説を読んだことはないが白樺派の作家だとのこと)『ショーペンハウエルの散歩』(河出書房新社)を読むが、どこかで読んだ記憶のあるショーペンハウアーが革命運動弾圧の報を聞いて小躍りして喜んだというエピソードは見当たらなかったものの、ぼくなりにイメージする保守反動派というのはショーペンハウアーのようなものなのだが。まだきちんと隅から隅まで読んでないが齋藤智志/高橋陽一郎/板橋有仁編『ショーペンハウアー読本』(法政大学出版局)も借りてきた。

ぼくは最近というか3.11以降著しく保守化しているものの、そうはいっても真の保守とか典型的な保守だというつもりはない。別に何も「擬装」もしていないしする必要もないので、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いといつもはっきり申し上げているが、保守派や右翼・右派が(鈴木邦男さんのような例外を除いて)毛嫌いしそうな福島みずほさん(編)『みんなの憲法24条』(明石書店)などもこれはお隣りの鎌ヶ谷の図書館から借りてきて愛読している。そういう意味ではぼくも中島さんがおっしゃるような漸進主義的改革に近いのかもしれない。というのは、ごく普通の議会制民主主義とか、または人権などの近代主義的、自由主義的立場が微温的だから、もっと急進的なものをという主張や勢力がかつてあったし、いまもあるからだが。そういう構図や思想的、政治的対立構造の地図、図式、図表は誰にでもわかっていることだと思うが、漸進主義的な改革、比較的左派の側だったら社会民主主義的な改革勢力があったとすると、そういうものは欺瞞だからより急進的な革命をという意見があった。冷戦終結前も自由主義プラス民主主義、議会、市場、人権などは欺瞞というか擬制なのだと強く批難する左派左翼勢力が国内外に存在している。「新自由主義」を批判するということで、例えばぼくは昔ドゥルーズガタリの関連で『豚として生き考える』というフランス語の時事評論の本を購入して少々読んだことがあるが、その筆者は専門の政治評論家とか政治学者とか活動家ではなく、確か数学者か自然科学者である。そういう人が極左的な(というのは別に「公安用語」ということではなく、フランス語のゴーシストとか、英語だったらultra-leftというのか? extremeなというか。そういうものを指してそう申し上げたいのだが)ドゥルーズ=ガタリなどなど「68年革命思想」に熱狂的に憧れ・帰依し、冷戦終結直後の状況で自由主義プラス民主主義を強く批判していたのだが、30年ほど経過した現在もとりわけ原則主義的、原則論的な左派はそういう立場からそういう議論を依然として強調している。別に間違いだとはいわないし、特に見識もデータもないぼくにそんなことを申し上げる資格もないのだが、自分からみればそれはもはや「信仰」でしかないようにみえる。そうして「信仰」なのであれば、その信仰を誰にも強制する権利はないと申し上げるしかない。

夏のおわりのト短調 (白泉社文庫)

夏のおわりのト短調 (白泉社文庫)