手痛む攝津正

アート・テイタムを日本語変換すると「手痛む」となってしまうので、この題名にした。
本日のUstream、melonmaedaさん、nakachiyamiさん、nakachiyamiさんのお友達のqianbianwanhuaさんなど5人の方が聴いてくださいました。ありがとうございました。yukie14さんとhuratiさんは間に合いませんでしたが、録画があります(http://www.ustream.tv/recorded/11287556)。聴き逃した方はそちらを見ていただければ幸いです。

というわけで、今日もやります毎日やります。
Ustreamライヴ放送毎晩やってるよ(22時から)。http://www.ustream.tv/channel/femmelets

Stickamのほうもやるときはよろしくね。
http://www.stickam.jp/profile/femmelets

アート・テイタムばかり聴いています。それも彼の死の年、1956年に残された2枚のアルバム、『ジ・アート・テイタム・トリオ』と『アート・テイタムベン・ウェブスター・クァルテット』を繰り返し聴いています。特に前者の冒頭の「ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・シングス」は大のお気に入りで、もう十数年、何度も何度も繰り返し聴き続けています。これほど好きな音楽はない、と思います。ベン・ウェブスターを加えたクァルテットでは、「オール・ザ・シングス・ユー・アー」がお気に入りです。このよく知られたスタンダードナンバーが、テイタムの手に掛かると荘重な曲のように聴こえます。
このようなジャズマニア、ジャズオタク的な趣味嗜好も「動物的」なものなのだろうかと自問自答しています。よく分からない。

ともあれ、ここで一旦送ります。

その1

攝津正が精神障害の悪化の為浦安の倉庫を退職して約十ヶ月が過ぎようとしていた。正は倉庫を辞めて芸音音楽アカデミーの講師になった。芸音音楽アカデミーとは正の実家である。何の事は無い、正は実家の家業(稼業)に戻っただけだ。
正は根気が無くなっていた。ユーキャンの通信講座の簿記三級とパソコン検定の勉強も放棄した。正社員の就職を探す事も、失業保険を受給する事も断念した。正は自分自身のことを、廃人だと感じていた。年老いた両親は正が過酷な肉体労働を辞めて家に帰って来た事を素朴に喜んでいた。だが彼らは、正が哲学、文学、音楽で大成し「一山当てる」と思い込んでいた。そのような僥倖などあり得ない事は正自身が承知していた。だから正は、老人を騙すようで心苦しかった。だが正には、他に生きようも無かったので、年老いた両親を搾取しつつ、「芸音音楽アカデミー講師」として(実態は無職)、怠惰な生活を送っていた。
正は毎日ブログを更新し、Youtubeを録画、公開し、Ustreamを放送していた。そのうちに正のファンも徐々にではあるが増えてきた。だがそうはいっても、それで喰える程のものでは全く無かった。正は図書館に通って様々な本を借りて読み、ものを書き、音楽して日々を過ごした。そのような生活は正の理想とするところであったかもしれぬ。だが、収入を生まない事は正の罪悪感を刺激した。
母親である攝津照子は、月に二枚、CDを買ってもいいと言っていたが、正は一切CDを購入する事を止めていた。又、CDレンタルも退会した。正は支出を切り詰めた。だが、それでも家計は赤字であった。倉庫を退職して後、正が家計を握っていたから、その事は痛い程分かっていた。
先日正は、国民健康保険証の切り替え手続きの為、照子と共に船橋市役所を訪れ、国民保険課、納税課で現状を報告したが、何とも堪らない恥ずかしさで真っ赤になりそうだった。貧乏であるという事はかくも屈辱的な事なのか! そう正は思った。堪え難いと思った。だが、堪えるしかなかった。借金、借金で回している攝津家の苦しい内情。お金を借りたご近所さんからも返済を迫られ、僅かなカラオケ会費から返済を開始した事。全てが「もう限界」という徴しに思えた。だが、限界だからと言って、どうすれば良いか全く分からなかった。攝津家は社会福祉制度のいずれにも該当しなかった。正は、湯浅誠さんらがやっている「もやい」に生活相談に行った事があるのだが、残念ですが、現状の攝津さんでは、利用できる制度はありませんね、と言われていた。生活保護障害年金も失業保険も何もかも当て嵌まらなかった。駄目だった。正は目の前が真っ暗になるように感じた。
正は、自分は何もかも半端だ、と思った。半端な教養、半端な財産。正の知識、教養、技術は社会のニーズに応えるだけの高さに到達していなかったし、攝津家の財産は生活の安寧を保証するに足る豊かさを備えてはいなかった。多重債務。借金地獄。それが攝津家の生活の内実だった。両親(攝津孝和、攝津照子)は七十五歳という老齢、自分(攝津正)は精神障害(正確に言えばパーソナリティ障害)、自分らはこれからどうなってしまうのだろう、と正は毎晩不安に考えた。だが幾ら考えても答えが出る筈も無かった。正に出来るのは現状を続ける事、つまり芸音音楽アカデミーの仕事を細々と続け、暇な時間にブログ更新とYoutubeUstreamを続ける事だけだった。現状を続けた果てに破綻があるのかもしれぬ。崩壊があるのかもしれぬ。少なくとも救済は待っていそうに無かった。だが、不安でも、この道を歩むより他無かった。倉庫や工場に戻る事は考えられなかった。その考えは、正の心を烈しい恐怖で苛んだ。倉庫や工場でも楽しい事もあった筈なのに、それは思い出されず、辛かった事、きつかった事ばかり思い出され、自分は適応出来ぬという想念ばかり思い描く事になる。それは何とも苦痛だった。だから正は、欺瞞的と言われようと、現状を続けるより他無かった。ひきこもって、金になる当ても無い「芸術活動」「表現活動」を続けるしか無かった。馬鹿げている、狂っていると自分で思ったが、それが正の出した結論だった。

その2

正は哲学者=作家=音楽家として社会から、他者から承認されようと必死に足掻いていた。四谷にあるジャズ喫茶の店主が正の文章や演奏を認めるような一行を書いてくれたことで正は狂喜した。だが、それでプロの演奏家への道が開ける訳では無かった。
正は仕事としては、芸音音楽アカデミーで演歌・歌謡曲を弾き、自分独りになると自由即興演奏に明け暮れた。完全などフリーの自由即興演奏を、どのように開いていき社会化すれば良いのか、分かっていなかった。この音楽が社会に受け入れられる日は来そうにもない、そう感じてもいた。それでも正は、Youtubeへの動画アップとUstream放送を毎日続けた。あたかもそうしていればいつの日かはプロのジャズピアニストになれるかのように。そんな保証は何処にも無いと分かっていたが、正は可能性にしがみついていた。

正の日課は老母と手を繋いで地元のスーパー、マルエツ、ウエルシア、リブレ京成Big-A、てらおなどに買い物に行く事だった。2ちゃんねらーは、「お手々繋いで、が親孝行だと思っているのか」と揶揄したが、正には他に出来る事が無かった。就職しようとかしたいとは微塵も思えなかった。三十五歳という年齢ももう限界だと思えた。
自分は社会に適応するのに失敗した、それはもう取り返しがつかぬ、と正は考えた。もう自分は、世捨て人として世の中の片隅で、細々と生きていくより他無いのだと。「社会復帰」という言葉には吐き気を覚えた。二度と社会になど復帰するものかと意地を張った。が、意地を張らずとも社会復帰は客観的に見て無理だった。
正は、年老いた両親が衰えたり、亡くなったりした後どうやって生きていけばいいのか、と毎日思い悩んだ。商売は、全て母親がやっている。自分は、出来ない。とすれば、もう生きていく術が無い。そう思うと心が暗くなった。だが、どうにもできなかった。

その3

正は「ジャズ・ピアノの神様」と称されたアート・テイタムが好きだった。特に彼が没した1956年に録音された『ジ・アート・テイタム・トリオ』と『アート・テイタムベン・ウェブスター・クァルテット』が好きで、毎日のように繰り返し聴いた。死の年のテイタムの演奏は、華麗であると共に枯れており、独特の味わいがある。正はそれを好んでいた。
東浩紀の『動物化するポストモダン』を読んで、自分も動物化したジャズオタクと言えるのか、考えてみた。だが、分からなかった。
星一平が言うような意味で、正は、自分がアカデミックであるとか孤高であるなどとは思わなかった。自分は、大学を逐われた身であり、膨大に存在する屑のone of themである。といった自己認識は正の心を暗くした。だが、真実を直視するならば、junkとしての自分を認識せねばならぬ。そう正は考えていた。
前も書いた通り、正は自分の知識や教養、技術が中途半端なものだと看做していた。自立した知識人としてやっていける程の深く広い教養はない。せいぜい、市立の図書館通い程度で得られる程度の、薄い知識しか自分は持っていない。正は、その事を自覚していた。
ドゥルージアンとしてすら、正は半端だった。ドゥルーズ研究者だった癖に、ドゥルーズの著作の原書や邦訳を、半分位しか持っていなかった。経済困難で買えなかったのである。大学院在籍時には、大学院の研究室や大学図書館で借りて読み耽っていたが、今は大学にアクセス出来ぬ。全て自前でやっていかねばならぬ。となると、ドゥルーズの著作さえ、読むのはままならなかった。
同年代の人が次々と意欲作を発表して世に出ていくのに、自分は取り残されている、その意識が正を焦燥させた。正は焦っていた。世に出なければ、と前のめりに思いつつ、その不可能を自覚するといった具合である。その繰り返しが、正を疲弊させ、神経症的に追い詰めていった。
正は自分の非才を自覚していた。友人の倉数茂や田口卓臣のようには小説は書けぬ。杉田俊介のようには批評は書けぬ。ジャーナリスティックな文章も書けぬ。正に書けるのはブログの文章、日々更新する日常生活の雑記のみだった。そんなものを誰が好んで読みたがるだろうか? 正はもう、労働すらしていないのである。自宅にひきこもっているから、誰とも出会いもない。何の新たな発見も認識もなく、日々「自己」とのみ向き合っている。そういう時間は自家中毒を引き起こした。
毎日厭かずに鏡を眺めているようなもので、次第に鏡の反映に嫌悪感を抱くようになった。だが鏡を眺める性癖は変えられぬ。そういう訳で正は、自己愛的であると共に自己嫌悪的であった。自分の醜悪さや劣悪を日々自覚するが故にそうであった。

その4

正はフリージャズとか自由即興と称してピアノを弾いていたが、それは完全に「出鱈目」なものだった。出鱈目に聴こえるだろうが、その通り、全く「出鱈目」であった。何の原理も理論も無かった。ただ、弾きたいように奔放に弾いていた。その事に後ろめたさは無かったが、他者の支持も容易には得られないだろうとも予測していた。
正のピアノは、誰をも模倣したものでなく、完全にオリジナルであった。正や老母は、その事を自画自賛した。だが、そのオリジナリティが、商品としての価値には繋がっていかなかった。正は、マイルス・デイヴィスが小馬鹿にした、芸術家気取りの貧しいフリージャズのプレイヤーに似ていた。その事を自覚してもいた。芸術家気取り。スノッブ
だがその俗物根性だけが、正が生存を継続する動機だった。その芸術家気取りが。いつの日か真正な芸術家として社会なり文化人らからなり承認されるのではないか、という淡い期待が正を詰まらぬ苦痛な生存に繋ぎ留めていた。しかし、その見込みが薄い事もよく分かってはいた。
まだUstreamが日本上陸しておらず、今は閉鎖してしまったらじろぐでインターネットラジオをやっていた三、四年前、美術家の岡崎乾二郎が正の放送を聴いてくれる事が何度かあった。正はそれに感激した。岡崎の絵なり評論の真の価値が理解出来る程芸術に詳しくないのを自覚しつつ、岡崎の知性に惚れ込み、彼からの評価を常に気にしていた。だが、岡崎は仕事が多忙になり、正の放送を聴く事はなくなった。そのことを正は寂しく思った。しかし、melonmaedaさん、iwayan77さん、yukie14さん、nakachiyamiさん、huratiさんといった常連さんが視聴してくれる事に、感謝の念を持った。特にmelonmaedaさんは、十年前のNAM時代からの友人であった。NAMが崩壊して、大多数の友人は正のもとを去ったが、melonmaedaさん一人が残ったのである。正はその事に感謝した。インターネットというのは有難いものだと思った。インターネットがあるお蔭で、福岡に住むmelonmaedaさんと千葉に住む正がコミュニケーションできるのだから。

その5

『ジ・アート・テイタム・トリオ』には、冒頭の「ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・シングス」の他にもう一曲、コール・ポーターの曲が入っている。「ラヴ・フォー・セール」がそれである。ここでもテイタムは素晴らしい快演を繰り広げる。正は、もう何回目になるのか分からぬが、それを大音量で掛けながら、陶酔の感情に浸っていた。高校生の時から、今に至るまで、ずっと聴き続けてきた音楽。かつて自分が聴いたテイタムと、今聴いているテイタムは同一なのか。分からぬ。過去の自分が消え去ってしまった以上、同一性が担保されているのかどうかは分からぬ。記憶はあてにならぬ証人である。記憶は多くを歪曲する。人間は自分の都合の良いように記憶し、忘却する。我々は過去をありのままに受け取るのではない、捏造するのだ。自己を正当化する虚構として。そういう意味で、あらゆる自分史は虚構である。正が語る自分史もまた、そうなのであろう。……

Art Pepper / Tokyo Debut

アート・ペッパー・ファースト・ライヴ・イン・ジャパン

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