その2

正は哲学者=作家=音楽家として社会から、他者から承認されようと必死に足掻いていた。四谷にあるジャズ喫茶の店主が正の文章や演奏を認めるような一行を書いてくれたことで正は狂喜した。だが、それでプロの演奏家への道が開ける訳では無かった。
正は仕事としては、芸音音楽アカデミーで演歌・歌謡曲を弾き、自分独りになると自由即興演奏に明け暮れた。完全などフリーの自由即興演奏を、どのように開いていき社会化すれば良いのか、分かっていなかった。この音楽が社会に受け入れられる日は来そうにもない、そう感じてもいた。それでも正は、Youtubeへの動画アップとUstream放送を毎日続けた。あたかもそうしていればいつの日かはプロのジャズピアニストになれるかのように。そんな保証は何処にも無いと分かっていたが、正は可能性にしがみついていた。

正の日課は老母と手を繋いで地元のスーパー、マルエツ、ウエルシア、リブレ京成Big-A、てらおなどに買い物に行く事だった。2ちゃんねらーは、「お手々繋いで、が親孝行だと思っているのか」と揶揄したが、正には他に出来る事が無かった。就職しようとかしたいとは微塵も思えなかった。三十五歳という年齢ももう限界だと思えた。
自分は社会に適応するのに失敗した、それはもう取り返しがつかぬ、と正は考えた。もう自分は、世捨て人として世の中の片隅で、細々と生きていくより他無いのだと。「社会復帰」という言葉には吐き気を覚えた。二度と社会になど復帰するものかと意地を張った。が、意地を張らずとも社会復帰は客観的に見て無理だった。
正は、年老いた両親が衰えたり、亡くなったりした後どうやって生きていけばいいのか、と毎日思い悩んだ。商売は、全て母親がやっている。自分は、出来ない。とすれば、もう生きていく術が無い。そう思うと心が暗くなった。だが、どうにもできなかった。