その1

攝津正が精神障害の悪化の為浦安の倉庫を退職して約十ヶ月が過ぎようとしていた。正は倉庫を辞めて芸音音楽アカデミーの講師になった。芸音音楽アカデミーとは正の実家である。何の事は無い、正は実家の家業(稼業)に戻っただけだ。
正は根気が無くなっていた。ユーキャンの通信講座の簿記三級とパソコン検定の勉強も放棄した。正社員の就職を探す事も、失業保険を受給する事も断念した。正は自分自身のことを、廃人だと感じていた。年老いた両親は正が過酷な肉体労働を辞めて家に帰って来た事を素朴に喜んでいた。だが彼らは、正が哲学、文学、音楽で大成し「一山当てる」と思い込んでいた。そのような僥倖などあり得ない事は正自身が承知していた。だから正は、老人を騙すようで心苦しかった。だが正には、他に生きようも無かったので、年老いた両親を搾取しつつ、「芸音音楽アカデミー講師」として(実態は無職)、怠惰な生活を送っていた。
正は毎日ブログを更新し、Youtubeを録画、公開し、Ustreamを放送していた。そのうちに正のファンも徐々にではあるが増えてきた。だがそうはいっても、それで喰える程のものでは全く無かった。正は図書館に通って様々な本を借りて読み、ものを書き、音楽して日々を過ごした。そのような生活は正の理想とするところであったかもしれぬ。だが、収入を生まない事は正の罪悪感を刺激した。
母親である攝津照子は、月に二枚、CDを買ってもいいと言っていたが、正は一切CDを購入する事を止めていた。又、CDレンタルも退会した。正は支出を切り詰めた。だが、それでも家計は赤字であった。倉庫を退職して後、正が家計を握っていたから、その事は痛い程分かっていた。
先日正は、国民健康保険証の切り替え手続きの為、照子と共に船橋市役所を訪れ、国民保険課、納税課で現状を報告したが、何とも堪らない恥ずかしさで真っ赤になりそうだった。貧乏であるという事はかくも屈辱的な事なのか! そう正は思った。堪え難いと思った。だが、堪えるしかなかった。借金、借金で回している攝津家の苦しい内情。お金を借りたご近所さんからも返済を迫られ、僅かなカラオケ会費から返済を開始した事。全てが「もう限界」という徴しに思えた。だが、限界だからと言って、どうすれば良いか全く分からなかった。攝津家は社会福祉制度のいずれにも該当しなかった。正は、湯浅誠さんらがやっている「もやい」に生活相談に行った事があるのだが、残念ですが、現状の攝津さんでは、利用できる制度はありませんね、と言われていた。生活保護障害年金も失業保険も何もかも当て嵌まらなかった。駄目だった。正は目の前が真っ暗になるように感じた。
正は、自分は何もかも半端だ、と思った。半端な教養、半端な財産。正の知識、教養、技術は社会のニーズに応えるだけの高さに到達していなかったし、攝津家の財産は生活の安寧を保証するに足る豊かさを備えてはいなかった。多重債務。借金地獄。それが攝津家の生活の内実だった。両親(攝津孝和、攝津照子)は七十五歳という老齢、自分(攝津正)は精神障害(正確に言えばパーソナリティ障害)、自分らはこれからどうなってしまうのだろう、と正は毎晩不安に考えた。だが幾ら考えても答えが出る筈も無かった。正に出来るのは現状を続ける事、つまり芸音音楽アカデミーの仕事を細々と続け、暇な時間にブログ更新とYoutubeUstreamを続ける事だけだった。現状を続けた果てに破綻があるのかもしれぬ。崩壊があるのかもしれぬ。少なくとも救済は待っていそうに無かった。だが、不安でも、この道を歩むより他無かった。倉庫や工場に戻る事は考えられなかった。その考えは、正の心を烈しい恐怖で苛んだ。倉庫や工場でも楽しい事もあった筈なのに、それは思い出されず、辛かった事、きつかった事ばかり思い出され、自分は適応出来ぬという想念ばかり思い描く事になる。それは何とも苦痛だった。だから正は、欺瞞的と言われようと、現状を続けるより他無かった。ひきこもって、金になる当ても無い「芸術活動」「表現活動」を続けるしか無かった。馬鹿げている、狂っていると自分で思ったが、それが正の出した結論だった。