Stan Getz / My Old Flame

My Old Flame

My Old Flame

同じアルトサックスといっても、スタン・ゲッツの音は柔らかい。フリーキーな演奏でもない。ソフトでクールな世界だ。

シューマンの指

読みたいが貸し出し中だ。

シューマンの指 (100周年書き下ろし)

シューマンの指 (100周年書き下ろし)

読む気にならない。

哲学書が山と積まれているが、読む気にならない。中村昇『ウィトゲンシュタイン』を読み掛けたが、駄目だった。そういう状態がしばらく続いている。読み、書く以外能の無い私にとっては危機的な状況である。
とか言いつつ、話を変えて宗教を語ってみようと思う。
キリスト教の教会に入ろうかと思い迷ったこともある。入信せずに正解だったと思うが、そんな心弱い時もあった。
オウム(やそれから派生した団体)のことを考えることもある。オウムのテロや、アルカイダが引き起こしたとされている9.11の同時自爆攻撃などは、思想的問題だと思うのだが、柄谷行人ら知識人は「単なる犯罪」と考える。敢えて「意味」を「読まない」のも一つの思想的姿勢であると認めつつも、それが犯罪に過ぎないとしても、何か意味があるのではないかと考えてみる。
それは日本的秩序やアメリカ的秩序の否定、破壊という側面だ。オウム信者が資本主義的奴隷になりたくないと北朝鮮に亡命した事件があって、世間は嘲笑したが、私は彼女の気持ちがよく分かる。彼女は公安調査庁にスパイを強要されていた。そういう世界を抜け出したい気持ち、よく分かる。
イスラム原理主義とか復興運動と呼ばれるものの自爆攻撃、これも心情はよく分かる。隷属の生よりは、誇り高い死をというわけだ。だが、他者を殺傷することへの躊躇いがあり、私はアルカイダにはならない(なれない)。
まあ、下手の考え休むに似たりを地で行くような文章だが、一応アップしておこう。

ウィトゲンシュタイン―ネクタイをしない哲学者 (哲学の現代を読む)

ウィトゲンシュタイン―ネクタイをしない哲学者 (哲学の現代を読む)

カウント・ベイシー&ズート・シムズ / ベイシー&ズート

ベイシー&ズート(紙ジャケット仕様)

ベイシー&ズート(紙ジャケット仕様)

思うのだがデューク・エリントンカウント・ベイシーって、ピアニストとしても超強力だ。彼らは謙遜していたけれども。ズート・シムズのサックス等も良いのだが、どうしてもベイシーのピアノに耳が行く。

近代芸術

先程のエントリーで宗教について語ったが、近代芸術は神なき時代の宗教のようなものではないか、と考えてみる。どこかで聞いたような科白だが、それはまあ措いておいて。
以前、私は神秘体験を語った。神なき神秘体験、語義矛盾だ。私はそれを、唯物論的な神秘体験とも呼び、バタイユの名を挙げた。(実はジョルジュ・バタイユを読み込んではいないのだが。)
私にとって哲学や文学、音楽等芸術は特権的な美の体験、脱自(忘我)体験としてある。その体験のありようそのものが、歴史性なり文化に制約され媒介されたものであることは認めるが。プラトン主義的(新プラトン主義的)秘教的審美主義というべきか。

労働からの自由

マイミクさん同士が「労働からの自由」を巡って議論していたので、自分も考えてみる。
金があれば、財産があれば、働かなくても良い。それはいいとして、財産がない人、不遇な人は働かねばならないのだろうか。
私だって食えてるわけじゃなく、収入は少ない。住宅ローンが終わったので、何とか凌げているだけである。食えなきゃ働かねばならんのか。それじゃ意味ない気がする。
イタリアの労働の拒否という戦略を、日本の文脈で考えてみたい。それはだめ連的なものとしてあったが、やはり、働かないで生きるのは難しいという結論になった。だめ連本の題名が、働かないで生きるには?というもので、それに触発された働きたくない人が大挙して押し寄せたが、それをどうにもできなかった。生活困窮者は困窮したままで、行き詰まっている。
だがもう一度、それを考えてみることはできないだろうか。

だめ連の働かないで生きるには?!

だめ連の働かないで生きるには?!

キース・ジャレット・トリオ / アット・ザ・ブルーノート

アット・ザ・ブルーノート

アット・ザ・ブルーノート

カーラ・ブレイ・ビッグ・バンド / アピアリング・ナイトリー

アピアリング・ナイトリー

アピアリング・ナイトリー

マイルス・デイビス / カインド・オブ・ブルー

カインド・オブ・ブルー(紙ジャケット仕様)

カインド・オブ・ブルー(紙ジャケット仕様)

構築主義とその限界批評

http://twitter.com/changsa/status/29178971082

.@noharra 性別二元論信奉者はジェンダーを概念でなく絶対自然属性のセックスとしか認識しない/できない。理性はどうか分かりませんが、国家も人間の種族自認さえ構築概念として認識する事はできますよ。(次にURLつづく

http://twitter.com/changsa/status/29179135468

.@noharra どっか変だったらご指摘願いたいです。どっか間違ってるハズですから修正を検討したくて何度もリライトしてます http://bit.ly/9B4j4Lhttp://bit.ly/be6fdi 具体例は重複するけど http://bit.ly/9oEQ4e

http://twitter.com/femmelets/status/29179133697

@changsa 基本人間の営みは「文化」ですんで、全て概念として構築したものだという主張も分かりますが、生物(学)的、遺伝的等々自然によって決定されている要素もあるのでは? それを一切無いとする根拠はありますか?

http://twitter.com/femmelets/status/29179723487

@changsa 人間種が「人間」であるか「狼」であるかは「自認」=概念認識の問題なんでしょうか。アリストテレス以来の「本質」概念を覆したダーウィンの進化論以来、現在は遺伝子というレヴェルで話が進んでいますが、種や個体の差異を規定するのは突然変異と環境なんでは?

http://twitter.com/femmelets/status/29179800956

@changsa 社会構築主義もいいけれど、なんにでも適用するわけにはいかない、というか、二面的な考えが必要だと思います。文化的、社会的に構築されているという側面と、自然的に規定されているという側面と。両方見ないと片手落ちになる。

「人間」概念と社会構築主義

Twitter上で或る人とちょっとした議論になった。その人は、種族帰属も「自認」による、例えば狼に育てられた少女は自らを「人間」と自認しない、などと議論していたので、私が介入して、次のように述べた。
初めて超越的な本質という概念(プラトンアリストテレス以来の)を覆したのはダーウィンの進化論であり、それは何によってかということは当時の科学水準では明らかに出来なかったが、種そのものが変わることを明らかにした。細かく言えば、個体が変異し、自然淘汰・自然選択(=環境の作用)を経て一定方向に「進化」する。現在は、遺伝子レヴェルでの突然変異と環境との相互作用ということで進化を考えるのが一般的だと思われる。
一切は文化的、社会的な構築物であると論じることは、他方にある自然的な基盤を見失うことであるのではないか、と私は言った。
それに対して、私の議論相手は、自分は、種族について、生物的なものと自認を分けていると答えた。私は分かったと言い、議論は一旦終わった。

しかし、よく考えてみたら、話はもっとややこしい。
例えば「人間」という時、幾つかのレヴェルを分けて考えねばならないのである。
一つは生物種としての人間であり、その自然的ありようは遺伝子(DNA)によって規定される。
もう一つは学問的概念としての人間であり、カントがそれを開き(『人間学』)、ニーチェがそれを閉じる(「超人」)。後者の「人間」概念は歴史、文化特定的であり、一定の起源と終末を持つ。『言葉と物』でミシェル・フーコーが論じたのは、近代に見出された、「生きている主体」「働く主体」「語る主体」として定義される「人間」概念の限界画定だった。それが「人間の死」として喧伝されたところのものである。近代西欧が描き出した人間の理念は、砂浜に描かれた顔のように消え去るだろう、というのである。

パオロ・ヴィルノの『ポストフォーディズムの資本主義―社会科学と「ヒューマン・ネイチャー」』(人文書院、2008)は、チョムスキーフーコーの論争を吟味することで、人間に生得的な要素が本当に無いのかどうかを吟味する。ヴィルノの答えは、人間は(他の動植物と違い)特定的な環境を持たない点が特異であるというものだった。言い換えれば、可変的で適応的ということで、その意味でポスト・フォーディズムによって見出されたマルチチュードは、人間の本質、固定された本質が無いという本質(一見逆説的だが)を十全に開花させたものと言うことができる。

ジュディス・バトラーも『ジェンダー・トラブル』を反省的に吟味した"Bodies That Matter"を出版しており、その概要は以下で見ることができる。http://www.geocities.jp/kawasakisoichi2004/butlertrouble.html
バトラーの議論は難解だが、「身体」を前景化し再検討したと言うことができる。

分かり易い別の議論で言えば、私と議論した人が主張しているように、ありとあらゆるもの、性、民族、国家、種族等が全て「自認」なのか、と問うことができる。国家や民族については、吉本隆明共同幻想論』、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』、柄谷行人トランスクリティーク』等でその幻想性(といっても単に考えられたものとか、すぐ消えるものとかでなく、根深く執拗に持続するものである)を指摘している。例えば、私が日本国の国民であるとか、千葉県の県民であるとか、船橋市の市民であるとかいう要素は、単なる観念ではなく、言葉だけで乗り越え難い何かを有している。せいぜい「在日日本人」などと言えるだけだ。私は「男性性」も越え難い・棄却困難なものとして意識している。ひびのまことは、誰でも望めばトランスジェンダーになれると語ったが、事態はもう少し複雑なようである。

種の起原〈上〉 (岩波文庫)

種の起原〈上〉 (岩波文庫)

種の起原〈下〉 (岩波文庫)

種の起原〈下〉 (岩波文庫)

ダーウィニズム論集 (岩波文庫)

ダーウィニズム論集 (岩波文庫)

生物進化を考える (岩波新書)

生物進化を考える (岩波新書)

カントの人間学

カントの人間学

カントの人間学 (講談社現代新書)

カントの人間学 (講談社現代新書)

人間学 (岩波文庫 青 626-2)

人間学 (岩波文庫 青 626-2)

言葉と物―人文科学の考古学

言葉と物―人文科学の考古学

ポストフォーディズムの資本主義―社会科学と「ヒューマン・ネイチャー」

ポストフォーディズムの資本主義―社会科学と「ヒューマン・ネイチャー」

ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱

ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱

Bodies That Matter (Routledge Classics)

Bodies That Matter (Routledge Classics)

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)

トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)

マルクス『資本論』の献辞

カール・マルクスが完成した自己の著作『資本論』第一巻を『種の起源』を書いた生物学者チャールズ・ダーウィンに捧げようとして拒絶(辞退)されたという逸話は有名である。
マルクス主義的なリベラル達は、ダーウィンマルクスの主張を真正な科学と認めていなかった証拠だ、ダーウィンは正しかった、と言い募る。その意見が妥当かどうかの検討は措くとして、何故マルクスが自著をダーウィンに捧げようとしたのかを考えてみたい。
先程のエントリーで述べた通り、数千年に及ぶアリストテレス的本質概念を覆し、種が変異するものであることを明らかにしたのがダーウィンの進化論だった。とすればマルクスも、資本制(資本家的)生産様式が歴史・社会特定的であること、別の社会構成体から変異して生じた歴史的なものであり、そうである以上、いつかは別のものに変異していくものであることを言いたかったのではあるまいか。つまり、資本主義は永遠不動のイデアや本質ではないと。当たり前、自明のことのようだが、21世紀の我々もまた、19世紀のマルクスダーウィン同様資本主義のうちにいる。勿論、その資本主義のありようや発展の度合いは大きく異なっているが。そうであるが故に、それの歴史性と可変性が見えなくなっているのではないだろうか。

資本論〈第1巻(上)〉 (マルクス・コレクション)

資本論〈第1巻(上)〉 (マルクス・コレクション)

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

資本論 (1) (国民文庫 (25))

資本論 (1) (国民文庫 (25))

資本論 1 第1巻 第1分冊

資本論 1 第1巻 第1分冊