読む気にならない。

哲学書が山と積まれているが、読む気にならない。中村昇『ウィトゲンシュタイン』を読み掛けたが、駄目だった。そういう状態がしばらく続いている。読み、書く以外能の無い私にとっては危機的な状況である。
とか言いつつ、話を変えて宗教を語ってみようと思う。
キリスト教の教会に入ろうかと思い迷ったこともある。入信せずに正解だったと思うが、そんな心弱い時もあった。
オウム(やそれから派生した団体)のことを考えることもある。オウムのテロや、アルカイダが引き起こしたとされている9.11の同時自爆攻撃などは、思想的問題だと思うのだが、柄谷行人ら知識人は「単なる犯罪」と考える。敢えて「意味」を「読まない」のも一つの思想的姿勢であると認めつつも、それが犯罪に過ぎないとしても、何か意味があるのではないかと考えてみる。
それは日本的秩序やアメリカ的秩序の否定、破壊という側面だ。オウム信者が資本主義的奴隷になりたくないと北朝鮮に亡命した事件があって、世間は嘲笑したが、私は彼女の気持ちがよく分かる。彼女は公安調査庁にスパイを強要されていた。そういう世界を抜け出したい気持ち、よく分かる。
イスラム原理主義とか復興運動と呼ばれるものの自爆攻撃、これも心情はよく分かる。隷属の生よりは、誇り高い死をというわけだ。だが、他者を殺傷することへの躊躇いがあり、私はアルカイダにはならない(なれない)。
まあ、下手の考え休むに似たりを地で行くような文章だが、一応アップしておこう。

ウィトゲンシュタイン―ネクタイをしない哲学者 (哲学の現代を読む)

ウィトゲンシュタイン―ネクタイをしない哲学者 (哲学の現代を読む)