あかねから帰る

母が体調不良で、風邪かと思って病院連れてったら、何とか菌とかいうのに感染しているというので、心配なので今日は早目に帰宅。伝染性もあるというので、気に懸かる。

あかねの太田昌国さんをお招きしてのサパティスタ・ナイトは大いに盛り上がる。私も疑問点を率直にぶつけて、有益な対話が成立したと感じた。

私が子どもの頃好きだった本

『美男奴隷』では、登場人物の夢の中に、貝殻で男根を切り開く場面があり、性転換手術に関する解説もある。

美男奴隷 (光文社文庫)

美男奴隷 (光文社文庫)

これと、これ。

去勢フェチ

幼い頃、物心ついた時からあった(w
理由は全く不明。
初めて性欲を感じたのが、小学校低学年?の時、仮面ライダーアマゾンの絵本を買い、改造手術で腹部を切り開かれている若い男の絵を見た時のこと。

どうでもいいトリビア。現在では陰茎癌などで去勢する場合、必ず尿道口を下方に付け替える。そうしないと、小便の時尿が上のほうに飛んで飛び散る。古代や中世の去勢術は尿道口を付け替えるなんて技術はないから、当然用を足す時には困ったはず。

私が一番萌えるのが、中国の宦官で、去勢した後、定期的にペニスが復活してないかどうかテストがあり、去勢時陰茎が体に埋まっていて残っていたのが発見された場合再手術が命じられるっていうシチュエーション。生涯に何度も去勢されちゃうわけで、本人は大変だったろうけど、何故かそういうシチュエーションに萌える。

http://mentai.2ch.net/whis/kako/974/974151164.html

暗記するほど聴き返したが

やはり良い。特に1曲目。☆5つ

これも暗記するほど聴き返したが

リラックスできる名演奏。ミルト・ジャクソンはモンクともやれるし、ピーターソンともやれる、凄い才能の持ち主だ。普通両立できないでしょう。

☆5つ

哲学書が難しい

当然なのかもしれないが。先日、ホワイトヘッドの『思考の諸様態』を軽く読み流してみようと思って挫折した。読解力落ちてるな〜。難解な哲学書を読むより、漫画なり新書を読むほうが楽だからね。人間、楽なほうへ楽なほうへと流れていくもんです。

今、中国にいる友人らとチャットで読書会やっているんだけど、ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』の話になって、「病める魂」っていう一番有名な章と初めの章を読み返した。面白かったですね。

今風にいえば、ポジティヴィティとネガティヴィティっていうか、ベタとネタ(アイロニー)っていうか、意識の経験としてのありようの違いみたいなのが提起されているのは面白かった。

ウィリアム・ジェイムズベルクソン西田幾多郎は宗教的経験を重視している。同時代にマルクスニーチェなどの宗教批判があったのだから、その時代錯誤は滑稽にも見えるけれども、宗教と宗教批判は紙一重でしょう。20-21世紀を生きるわれわれには想像もつかない切実な問いがそこにはあったんだと思う。

ホワイトヘッド著作集 第13巻 思考の諸様態

ホワイトヘッド著作集 第13巻 思考の諸様態

とか、

宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)

宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)

信仰

信仰の問題が哲学に付き纏う。知性で理解できるものと、信じるしかない何か或るものの領域。ドゥルーズの『シネマ』では、「この世界を信じること」という衝撃的な提起がなされる。それが衝撃的なのは、この世界の実在が「信仰」によって取り戻されねばならないほどに失われてしまった、という歴史性にある。

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

「女性神経」など独特の用語で語られる、神との不可思議な関係。

翻訳としての人間―フロイト=ラカン精神分析の視座

翻訳としての人間―フロイト=ラカン精神分析の視座

とか、

シュレーバー

シュレーバー


とか、

シュレーバー回想録―ある神経病者の手記 (平凡社ライブラリー)

シュレーバー回想録―ある神経病者の手記 (平凡社ライブラリー)

ドゥルーズ/シネマ2

私は大学院在籍時に、研究室の本をボロボロになるまで読み返し、言及されている映画をチェックしたりしていたが、ドゥルーズの歴史意識で特異なのは、第二次世界大戦に断絶を見ていること。西洋の思想家で、第一次世界大戦にヨーロッパ的なるものの没落を感じた人は多い。例えば、D.H.ロレンスとか。しかし、第二次世界大戦の世界大の破壊に、人間の根本的なありようの機能失調なり崩壊を見て取った人は少ないと思う。

第二次世界大戦が根本的な断絶をしるすという歴史認識は、ジャズのそれと極めて近い。ジャズにおいても、チャーリー・パーカーらが発明した新しい音が「モダン・ジャズ」と呼ばれる或る種の吃り方(敢えて言えば)をもたらした。それは恐らく、世界同時的な現象だろうと思う。

恐らくスイング・ジャズと古典的な映画のモンタージュを比較できるだろう。そして、非合理的な切断なりの要素が導入される現代映画(それは基本的には、イタリアの作家達の実践に始まる)とモダン・ジャズの飛躍を比較することができるだろう。そこに表現されている現代性は、知覚→行動という機構が壊れた壊れ物としての人間が、純粋な見者なり聴く者として光なり音の洪水に晒される、という契機である。映画なりジャズなりは、その現代性の契機において、恐らくロマン主義と決別するか、或いはそこに新しい要素を持ち込むのだ。(未完)

プレカリアート芸術

プレカリアート芸術、と口に出して言ってみる。そうした現象は、存在しているのだろうか。またそれは、プロレタリア芸術なり労働者の芸術なりと呼ばれたものと、どこが異なっているのだろう。

プレカリアート芸術のはしりとして、パゾリーニの『アッカトーネ(乞食)』を想定してみる。この映画では、主人公は、労働のエートスを身につけることも、犯罪者になりおおせることすらもできない。一切の試みに失敗して、彼は交通事故で死ぬ。

こうした或る種の無為、無能力の顕揚として、充溢した「力」の誇示としてのプロレタリア芸術と異なったものとしてのプレカリアート芸術の特徴を把握してみたい。

アッカトーネ [DVD]

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それは音楽としては、チャーリー・パーカーバド・パウエルビバップに表象される(のかもしれない)。彼らは新しい乞食芸人であり、全く新たなタイプの音楽家像を創出した。

チャーリー・パーカーの芸術

チャーリー・パーカーの芸術

文学としてはそれは、不安定で差異を孕んだ特異な表現に見られる。例えば、

泥棒日記 (新潮文庫)

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とか、

南回帰線 (講談社文芸文庫)

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路上 (河出文庫 505A)

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とか、

ジャンキー (Serie fantastique)

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とか、

猛者(ワイルド・ボーイズ)―死者の書

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