『個人的な体験』から

『個人的な体験』から。243ページ以下。

「そうじゃないよ、鳥(バード)。夜明けまで追いかけたあなたと、真夜中に脱落して逃げだしてしまったわたしとでは、それ以後の人生がすっかりちがったもの。あなたはわれわれ不良少年とつきあうのをやめて東京の大学に入ってしまったし、わたしは、あの夜以来ずっと下降しつづけで、いまも現にゲイ・バーなどにもぐりこんでいるわけよ。鳥(バード)があの時、ひとりで出かけてしまわなかったとしたら、わたしもいくらかちがったやりかたで生きてきたと思うなあ」

「鳥(バード)がその夜、菊比古を見棄てなければ、菊比古はホモ・セクシュアルにもならなかった?」と火見子がさしでがましく訊ねた。

鳥(バード)は困惑して菊比古から眼をそらした。

「ホモ・セクシュアルの人間とは、同性愛を実行することを選んだ人間だ、というでしょう? わたし自身がそれを選んだのだから、責任は他の誰にもないよ」と菊比古がおだやかにいった。

「菊比古はフランスの実存主義者の言葉も知っているのね」

ゲイ・バーの主人は博識でなければつとまらないのよ」と菊比古は営業用のエロキューションらしい歌うような調子でいった。それから地の声にかえると鳥(バード)にむかって「脱落したわたしが下降しつづけているあいだ、鳥(バード)は上昇しつづけたんだけど、いま、あなたなにをしている?」

「予備校の講師をしてるんだけど、夏休からあとはクビになることにきまっていてね。上昇どころじゃない」と鳥(バード)は答えた。「しかも、おかしなごたごたに追いかけられどおしでね」

「そういえば、二十歳の鳥(バード)が、こんな風に意気消沈してしまうことはなかったなあ。いま鳥(バード)はなにかを恐がっていて、それから逃げだそうとしている感じだけど」と機敏な観察力を発揮して菊比古はいった。かれはもう鳥(バード)の知っている、かつての単純な菊比古ではないようだった。かれの脱落と下降の生活はきわめて複雑な日々だったのだろう。

「そうだ、ぼくはぐったりしているし、恐がっているし、逃げだそうとしているよ」と鳥(バード)はいった。

「二十歳の鳥(バード)は、あらゆる種類の恐怖心から自由な男でね。鳥(バード)が恐怖におそわれているところなど見たこともなかったのに」と菊比古は火見子にいった、それから直接鳥(バード)に、「いまのあなたは、恐怖心にとても敏感そうだなあ。恐がって尻っ尾をまいている感じだなあ」と挑発するようにいった。

「ぼくはもう二十歳じゃないのでね」と鳥(バード)はいった。

「かれは昔のかれならず」と菊比古はじつに冷たい他人の表情をむきだしていうと、思いきりよく火見子の傍へ移っていった。


個人的な体験 (新潮文庫)

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