経験の変容を巡って

ソフィストというカタカナ語をどう日本語に訳せばいいのかは諸説あるが、弁論家、詭弁家、法律家。さらに進んで詐欺師ともいえるが、僕は十代の頃から屡々そう非難されてきたが、要するに恣意的な意見を平然と開陳するということである。僕はそういうことについて何とも思わないが、要するに罪悪感や恥辱などの意識がまるでないのである。裏切りなども平気である。仲間というか、仲間や同志などは最初からいないとしても、(かつて)立場を同じくした人々を警察や権力に売り渡すことも平気なのかといえば、さすがにそこまでのことは余りやらないが、それさえも道徳とか仁義とか、さらには美意識、美学などの問題でもない。

そういうことについて省察すれば、熊沢誠さんという労働組合運動がテーマの研究者の方が「組織労働者のエートス」について書いておられることと相同的だが、要するに、かつての組織労働者たちは、たとえそれが自分の利益になるとしても、仲間を出し抜かない、というエートスがあった。仁義とも道義とも美意識とも申し上げていいだろうが、そういう主張を展開されている。そうすると、本物の知識人は裏切らないし仲間を出し抜かないが、亜インテリや一部の左翼知識人はそうする、という、山本眞理さんの御意見は、労働者と知識人の違いはあれど、同じことを繰り返していることになる。

それはごく単純化して申し上げれば、「良い労働者、悪い労働者」、「良い知識人、悪い(ダメな)知識人」というようなことだが、僕は必ずしもそうは思わないし、また、健康・健全である(あった)ものと腐敗・頽廃・頽落したものという二元論も採用しないところである。上述の枠組みについて、「ルンペン・プロレタリアートは必ず裏切る」とか、「中間階級は動揺的で不安定」というかつてのマルクス主義者の通念も想い出すところだが、僕自身は少しもそうは思わない。

最近、いーぐる掲示板で白/黒という表現を巡って熱い(?)議論が闘わされており、そういうこととか、Facebookでの一連の検討、例えば、ネグリの「マルチチュード(多数者)」概念の検討であるとか、渡辺雅男教授の『階級! 社会科学の概念装置』における社会科学/社会学、実体概念/機能概念、社会階級/社会集団という枠組みの検討を通して、僕なりに一定の考え方を整理しているが、それは例えば統計を用いた客観的な実証などとは無関係である。別に実存主義的に体験に深刻に拘っているわけでもない。ということについて、『「ニート」って言うな!』の後藤和智Twitterで展開している一連の主張を全面的に否定している。かつて知り合いだった社会学者K氏の、渡辺教授を称揚する学問的な客観性や実証性なども否定している。僕は自分は哲学者だとか文学者だと申し上げたいわけではない。詐欺師だと申し上げている。

それはいいとして、例えば次のような妄言から出発する。

「メディア技術を扱う立場としては大まかにいって、これまで二つのものしかなかった。すなわち肯定主義(例えば電脳文化論)と否定主義(文明論的技術批判、マルクス主義疎外論、技術決定論批判など)である。これに対して第三の道を示したのが、ハイデガーヴィリリオの(唯物論的)相対主義的立場であるとわれわれは考える(これは近年流行しているいわゆる「社会構築主義」のような観念論的歴史主義的相対主義とは全く異なるものである。」

これは和田伸一郎の『存在論的メディア論 ハイデガーヴィリリオ』(新曜社)の12−13ページだが、僕はこれは全くの妄言であると考える。それはあらゆる次元でそうである。これまで技術やメディアについての考察が、マクルーハンなどの電脳文化論(肯定的な議論)と通俗的疎外論、どこかに自然や本来性を想定する道徳的なお説教しかなかったというのは本当の話なのか。ハイデガーヴィリリオ唯物論だとかいうのは本当の話なのか。社会構築主義構成主義は観念論なのか。

上述のことについて、一つも証明が示されていないのである。そうすると、和田氏の個人的で勝手な定義と思い込みだと申し上げるしかない。そこには構築主義構成主義)ならそれについてのしっかりした検討や議論は何もないではないか。そして、ハイデガーヴィリリオがただ単に技術やメディアを重視するからという理由だけで唯物論者だというのも全く理解できない。また、マクルーハンの意見はそんなに単純なものなのか。

さて、借りてきたばかりでまだ読んではいないが、先日初めて読んでみたジグムント・バウマンという社会学者に注目して地域の図書館から数冊借りてきた。その中には『アイデンティティ』(日本経済評論社)、『コミュニティ 安全と自由の戦場』(筑摩書房)も含まれているが、そういうテーマだったら僕自身もたまたま20年来考えてきているし、先程の渡辺教授の二元的な枠組みとも関連するし、和田氏がおっしゃる社会構築主義の対象にもなっており、さらに、いーぐる掲示板でのごく初歩的で基本的な事柄を巡る論争のテーマとも関連しているので、少し意見を申し上げてみたい。

僕はごく大雑把に左翼的とカテゴライズして構わないであろうような御意見を余り信用していないところである。例えば、ネグリネグリ=ハート)の帝国とかマルチチュードには実証がないとか、若者論やマイノリティについての意見に実証がないとか、統計的な根拠(笑)がないとか、機能主義的な社会集団概念に実体論的な社会階級概念を対置するとか、68年以降的なアイデンティティ・ポリティクスよりもやはり階級に基盤を置く大きな政治が重要であるとか、そういう御意見の数々だが。僕はそういう主張を信じたり、賛同したり、与したことが一度もないのである。

さらに、いーぐる掲示板でタンゴ研究家の山本幸洋氏は次の御意見を投稿されているが、僕は根本的に疑問を持ち、また否定したいところである。

【引用開始】
お問い合わせに対し
投稿者:山本幸洋 投稿日:2013年 4月 9日(火)22時27分42秒
ロバート・マイルズによるレイシズム(人種区別もしくは差別主義)の定義:
============ここから==============
・肌の色など恣意的に選び出された特徴を重要な基準として選択し(segregation)、この特徴により人間集団をカテゴライズし(racialization)、否定的/肯定的な評価を付与し、一定の人間集団を排除/包摂(exclusion/inclusion)していくイデオロギー
ステレオタイプな他者像(representation of the Other)をともなう。
・分類の基準となる特徴は、一般に形質的なもの(例 肌の色、髪の型、頭の形)だが、見て直ぐに分からない生まれつきの現象(例:血統)も重要な特徴として選ばれることがある。
============ここまで==============

に対し、後藤さんから以下のお問い合わせをいただきました。
「「恣意的カテゴライズ」「否定/肯定」「排除/包摂」の3条件のうち、すべてが揃ったときに「人種差別」となるのか、あるいは、その一部でもあれば即差別と見なすのか、」
「しかし3番目の「排除/包摂」というのは具体的にどのような行為がそれに当たるのか、いまひとつ判然としないのです。」

定義ですから、条件を全て満たすことが必要です。
また、排除/包摂は日本語ですとちょっと堅苦しいですが、英語ではexclusion/inclusionですから、ようするに十把一絡げにまとめてしまうということです。
用例を挙げますと、マトリクスをテキストにしまして、
○○は、△△だから、□□である
○○は、△△でないから、□□である
○○は、△△だから、□□でない
○○は、△△でないから、□□でない
ロジカルにはこうなります。例えば、○○にはミュージシャン名、△△には肌の色、□□には特長を入れてみると解りやすいでしょうか。
例:LKは※人だからギターがうまい
  LKは※人ではないからギターがうまい
  LKは※人だからギターがうまくない
  LKは※人ではないからギターがうまくない
いずれの表現もステレオ・タイプな他者像を伴い、ロバートさんが定義するレイシズムに該当します。
また、ロバートさんの定義最後者を汲み取れば、※人をアフリカン・アメリカンに置き換えたところで、レイシズムに該当します。

山本幸洋
【引用終了】

山本氏はお気付きかどうか存じ上げないが、ここでは問題は「黒人」という用語の代わりに「アフロ・アメリカン」を採用してはどうかという瑣末な表現上の事柄ではなく、一般的な言明や認識、判断に関わる相対主義懐疑論、不可知論、不可能性が主張されている。その含意を承知されているのだろうか。到底そうは思えないが。

山本氏の図式に基づけば、よく反差別の活動家やそれに類した(ワナビー活動家の)連中が、出来合いのテンプレートに基づいて極めて安易に展開するPC的な「言葉狩り」、(こういう表現はないが、造語すれば)「判断狩り」は幾らでも可能である。「黒人」であれ、「アフロ・アメリカン」であれ、個人や個体、個別の行為などを超えた少し一般的な何かについて少しでも何かを主張すれば、上記の理屈で反駁可能なのがお分かりだろうか。山本氏御本人には理解されているのだろうか。

「黒人」か「アフロ・アメリカン」かは問題ではない。言われている内容が否定的か肯定的かにも関係ない。当事者が云うか第三者が云うかも関係ない。「黒人(アフロ・アメリカン)は」と一般的な判断を主張すれば全部上記の禁則に引っ掛かってしまう。要するに何も云えなくなる。そういう帰結について、皆さんはどれほど承知し合意されているのだろうか。僕個人はそういう馬鹿げた下らない倫理(?)などには1ミリも同意など与えない決意である。

ということで本題のコミュニティ/アイデンティティについて展開する余裕がほとんどなくなってしまったが、労働者というような階級と、民族・人種・宗教・ジェンダーセクシュアリティその他のアイデンティティのいずれを重視するかというような二者択一的、二元論的な議論よりも、むしろ全面的な不安定性と流動性という相において考えたいところである。それは社会的、経済的な階級が「ない」とか、アイデンティティは虚妄である、思い込みである、というような極論ではないことは申し上げるまでもない。僕は社会学者でも社会科学者でもなく、およそどういう意味での学者ではないので、最初に申し上げたように詐欺師ですので(笑)、実証や統計的な根拠(笑)なども一切提示するつもりもないが、比喩的にイメージで申し上げればこうでしょう。音楽の比喩を使います。

バッハ以来の平均律というものがある。僕は古楽にはそれほど詳しくないが、バッハ、例えば『平均律クラヴィーア曲集』以降を我々が普通常識的に承知している(西洋)音楽の基本的な枠組みとみなしても差し支えないであろう。ジャズ理論、バークリー・メソッドも基本的にそれを受け継いでいる。ハ長調ならばCと呼ぶ、記号化するということですね。高橋悠治はそれは、クラシックからの窃盗であり剽窃なのだと非難した。だが、そういう道徳などはどうでもいい。問題は、20世紀以降我々がよく知るように、その調性があらゆる仕方で複雑化、曖昧化されたり、解体されたり(新ウィーン楽派、それ以降の現代音楽。ジャズではフリージャズ。また、フリー・インプロヴァイゼーション)してきているというころである。

もう少し申し上げますと、クラシックであれジャズであれ、もともと、いわゆる三和音だけで成り立つ単純な曲などほとんどなかったでしょう。ハ長調、Cだったら、C、F、G7だけで構成された曲などは退屈なものでしかなかっただろう。だが、ロマン派、後期ロマン派においては、その調性が極めて複雑化された。その典型というか最も極端な事例はワーグナーだろうが、彼に限らず、リストであるとか、または、マーラーなどを考えてもそう思うはずである。そして、調性の複雑化が20世紀の現代音楽の道を開いたと云うべきであろう。この過程はジャズでも反復されたはずで、ジャズは、もともと奴隷であり、南北戦争の後に解放された黒人(アフロ・アメリカンですか。はいはい)たちのもともとの文化とヨーロッパ音楽が融合したり衝突、葛藤したものだが、ニューオーリンズとして成り立ち、スウィングとして大衆化した後、ビバップで高度に複雑化したが、それはコード進行や構成という意味でもそうだったのである。そうすると、そこには幾つかの問題が生まれた。演奏者にとって難し過ぎる。リスナー、聴衆にも難解。さらに、コードの制約も超えたい。というところで、少々通俗化・大衆化を含むハード・バップやファンキーが50年代後半に展開され(『モーニン』)、コードではなくモードに訴える技法が模索され(『カインド・オブ・ブルー』)、コードの制約そのものを取り払う方向も実験され(フリージャズ)、電気楽器・電子楽器を使ったりジャズ以外の黒人(笑)音楽との融合も模索された(エレクトリック・マイルス、フュージョン)。初歩的な音楽史やジャズ史の再録で大変恐縮ですが、上述のような調性の複雑化と解体という一連の展開と、人間の経験、個人的な経験と集団的な経験のありよう(の、もしかしたらあるのかもしれない変容)を比べてみてはいかがでしょうか、ということですが。ご一考いただければ幸いです。