仮面についての雑感

人格(パーソナリティ)を仮面(ペルソナ)から考えるという意見はよくあるが、ここではまず音楽から考えてみたいが、ドビュッシーラヴェルの対比である。僕は彼らの楽譜を持っていないし、音楽学的・楽典的な分析を加えたわけではないことはお断りしておかなければならないが、両者について、こういうことが云われたりする。

つまり、ドビュッシーラヴェルをフランス印象派とか印象主義ということ一括りにすることは粗雑である。両者は深く異なる。ドビュッシーは全く新しい語法を創造したのであって、後の現代音楽的な展開に通じる通路を切り開いた。他方、ラヴェルのほうは、仮面を付け替えるように様々なスタイルをあれこれ展開したのである。

そういうクラシックの評論家の意見について僕自身が検証することはできないが、CDを聴いている範囲では確かにそういう感じもする。そういうことについて、シェーンベルクストラヴィンスキーについても似たようなことを感じる。また、ショスタコーヴィチプロコフィエフについても。バルトークと……こちらは対応する誰かを見出せないが。

「保守的な革命家」シェーンベルクが十二音音楽や無調を切り開いたとすれば、ストラヴィンスキーは「革命的な保守主義者」とでも称すべきだろうが、生涯にわたって次々に新しいスタイル(必ずしも「新しく」ない新古典主義なども含めて)を渡り歩いた。ショスタコーヴィチスターリニズムの重圧と芸術家の表現意欲・良心の狭間で苦悩したのに対し、プロコフィエフはより適応的であった。バルトークは……。

ジャズであれば、後藤雅洋id:eaglegotoジャッキー・バイアードに加えた非難を想い出すべきかもしれない。つまり、ストライドからフリーに至るまでめまぐるしくスタイルをチェンジできるが、自分のオリジナルな表現が余り感じられない、というのだが、バイアードについての正当な評価であるかどうかはともかく、それもまた仮面の問題として捉えてみてはどうだろうか。ひいては、ポストモダン的(?)な「歴史の終わり」の後の任意に取り替え・選択可能(かもしれない)複数のスタイルの問題として。

ということで僕が考えたいのは広義の転向の問題なのだが、conversion、態勢の変化、姿勢の向け変え……位置や方向を変えるということだが。それを人格(パーソナリティ)/仮面(ペルソナ)から考える。……精神病理学では解離や多重人格として(まさに、複数のパーソナリティ/ペルソナが問題になるわけである)。日本文学だったら誰でも三島由紀夫の『仮面の告白』を思い浮かべる。哲学だったら、坂部恵『仮面の現象学』などの一連の議論が想起されるであろう。

要するに、何か一つの絶対的に、根本的に新しいオリジナルなスタイルを創造して、生涯それを貫く、ということではなく、任意に(任意ではないかもしれないが)選択可能な複数の、沢山の仮面があって、それを様々に付け替えていく、という発想である。これはいわゆるポストモダニズムなのだろうか。そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。それは定義によるのだとしか申し上げられない。

30年代の政治的な転向だけでなく、もっと広い意味での転向について、それは深刻な主体性の危機と捉えられる場合もあれば、または軽やかな(戦略的な)態度変更と捉えられる場合もある。後者についてはニューアカ浅田彰)以前に花田清輝林達夫などの戦前・戦中のレトリシャンを想い出すべきだろうが。ここでも音楽の用語や音楽のイメージに置き換えて考えてみれば、従来の伝統的な(バロックや古典派以来の)調性やコードを守り続けるか、きっぱり否定・放棄するのか。または、調なりコードを複数化・多数化したり、複雑で曖昧なものに変えていくのか。さらに、それらの全てを選択可能な既存のスタイルとみなしてそれぞれに(仮面のように)付け替えていくのか。

転向について、深刻な(悲劇的な、または実存主義的(?)な)捉え方とそうではないものがあるという上述のことに関連して、『仮面の告白』を再考すれば、それは「告白」についての、または語りそのものについての幾つかの異なった理解があるのだということであろう。つまり、主体の、またはその人の真実がそのまま白日のもとに曝されるという意味での告白が一つである。暗い闇の領域に遺棄されていた真実、それは往々にして罪や恥辱などの否定的なものと関連させられるが、或る瞬間に語る主体が勇気をもって決断し、それを公にする──「告白」するのだという捉え方である。他方、それとは違う発想もある。ここで二つの方向性が全く異なるものを挙げれば、まず、「素顔」の、素面の告白ではなく「仮面」の告白としての三島の小説である。もう一つは、キース・ヴィンセントや風間孝、河口和也らの『ゲイ・スタディーズ』(青土社)が定式化するような「カミングアウト・ストーリー」である。語ること(ストーリー・テリング)と歴史(ヒストリー)。勿論客観的な歴史が問題ではなく、「ライフ・ヒストリー」が問題にされる。

それは大文字の歴史、世界史や国家の歴史が問題ではないから、歴史修正主義や歴史改竄主義という非難は当たらない。それはそうなのだが、しかしそれでも、真実なり真理を巡る倫理またはポリティクスはある。端的に申し上げれば、想起されたり語られる歴史/物語が果たして事実なのかどうか、それを確かめる方法はあるのだろうかということである。そして、事実かどうか、真実かどうか、ということや、語られたストーリーが、語る主体や、その語りを差し向けられた他者たちにどういう効果を及ぼすのかというようなことも問題になる。

ということで、今回はとりあえず一回ここで送ってみましょう。