メモ

シャワーでも浴びるが、その前にメモ。

「或る特定の社会集団を恣意的にカテゴライズして一般的な言明をしてはならない」というのは、反差別やいわゆる表象批判の文脈でよく見掛ける。一例として、「男性同性愛者はアナルセックスをする」という思い込みが必ずしも正しくない、という典型的な例を取り上げる。

それは事実として多くのゲイ男性やバイセクシュアル男性(の性行為)は多様で人それぞれである、ということだが、ここでもう一つ別の角度から見てみたい。それはフロイトの意見であり、彼はアナルセックス、肛門性交が異性愛者、男女の夫婦においても広く行われている事実だと主張している。

ちなみに、フロイトは別に統計などを提示してもいない。彼の恐らく経験的な知ということだが、そこに社会認識というか、世の中がどうなっているのか、ということの認識の一つのありよう(経験や見聞という回路)を見ることもできよう。

そうすると、フロイト没後の20世紀以降は、例えばキンゼイ報告やハイト・レポートなどもある。それを参照することもいい。さらにもう一つの論点は、セクシュアリティの如何を問わず、そういうことをそもそも問うべきではない、というものだが、そうすると次元が全くズレてしまうということに気付くべきだろう。それは言明がどのくらい妥当なのか、ということではなく、知ろうとすること、知への意志、好奇心そのものの倫理的、または政治的な制限であり禁止なのである。これが果たしてどのくらい正当化されるのかということは考えたほうが良い。

もう一つ、黒人といっても豊かな黒人と貧しい黒人がいる、というのもごく当たり前のことだが、同様に白人もそうだ。WASPもいれば、いわゆるプア・ホワイトもいるのである。では、人種と関連づけたブラック・ミュージックが問題にされるとすれば、貧乏人やワーキングクラスの音楽、プロレタリア音楽ではないが、そういうものはあるのだろうか、とも想像を逞しくしてみたくもなるだろう。とりあえず僕はビートルズジョン・レノンなどを思い浮かべるが、皆さんは如何だろうか。