『不満足』から

幾つかの抜き書き。『不満足』から。55ページ以下。

──おかまはあの男をいわばキリストみたいだなどと誇張していうほどで、と鳥(バード)がいって、微笑しながらつづけようとした、それを突然はげしい声で菊比古がさえぎったのである。

──もういいよ、おかまもキリストも関係ない、汚ない連中のことはもういいじゃないか、ほっといて帰ろうよ。

──なぜ汚ない連中なんだ、と鳥(バード)が凄いほど冷酷に決定的な調子でいった。菊比古、おまえこそおかまじゃないか、CIEのアメリカ人と寝てるじゃないか? 僕が生れてはじめて味わうほどの濃く深い気まずさの沈黙が鉛の蓋を僕らの頭のうえにどすんとおとした、時間がとまり鳥(バード)の呪文で世界は眠り姫の城になった、僕は鳥(バード)の顔も菊比古の顔もみることができず紅潮した自分の顔を身震いがおこるほどじっと硬くうつむけているだけだった。傷ついた感情、憤激、奇妙にさむざむした不幸の感覚、それに場ちがいの欲望まで僕の凍りついた体の内部で渦状星雲のように深い無限の暗黒の淵のうえでくるくる光ってまわった。ソバ屋のずっと高みで深夜の秋の風が吹きすさびはじめる気配があった。それから不意に小さな野蛮な獣のようなうめき声をほんの一瞬だけもらして菊比古いが立ちあがり外へ出て行った、かれのなげだした四枚の十円硬貨のひとつがテーブルの溝にはまりこむのを僕はうなだれたまま見つめていた。

──鳥(バード)、あんなことをいってはいけなかったんだ、取りかえしがつかないよ、と僕は急に苛だたしい悲しみに揺りうごかされてうつむいたままいった。ああ、と鳥(バード)もぐったり虚脱していっていた。