『不満足』から『個人的な体験』へ

『個人的な体験』は『不満足』の続編である。主人公たちが共通である。つまり、鳥(バード)。そして、菊比古。政治とは関係がないこれらの物語が、どうして、転向と市民的な徳の物語なのか。それは、そこにおいて決定的な傷が問題であるからだ。『不満足』の幕切れもそうだが、『個人的な体験』における次のやりとりが示す通りである。

「ぼくはもう二十歳じゃないのでね」と鳥(バード)はいった。
「かれは昔のかれならず」と菊比古はじつに冷たい他人の表情をむきだしていうと、思いきりよく火見子の傍へ移っていった。

これは245ページである。さて、ここで申し上げている転向というのが、政治的な転向とか、左翼思想を棄てるとか、特に昭和前期のマルクス主義の弾圧だけを指すわけではないことはいうまでもない。大江健三郎自身も、主人公の鳥(バード)も別にマルクス主義者などではないからである。そうすると、そこにおける変化は、転向というような言葉で言わないほうがいいのかもしれないが、しかし、転向 conversionは、宗教的な回心とか、宗教と関係なくても、主体性の決定的な変容を指し示す表現としても捉えることができるであろう。我々はそこで、ウィリアム・ジェイムズ(『宗教的経験の諸相』)における「二度生まれの人間」とか、内村鑑三(『余は如何にして基督教徒となりし乎』)における入信なども想い出し、これらの推移なり変化を比べることもできるであろう。そうすると、むしろ「成熟」の問題なのか。それは僕には分からないが、少なくとも『個人的な体験』の主人公を深刻に苦しめているもの、彼を二十歳の頃の自分から隔てているものは、妻が障害のある子供を身篭った、という出来事の受容である。

空の怪物アグイー (新潮文庫)

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