市民的な徳と転向

ここでようやく市民的な徳(エートス、シティズンシップ)と転向という主題に入ることができるが、検討するのは以下である。大江健三郎『不満足』、『後退青年研究所』、『個人的な体験』、『万延元年のフットボール』。島田雅彦『天国が降ってくる』。『優しいサヨクのための嬉遊曲』は今手元にないため、後日となる。

『不満足』は『空の怪物アグイー』(新潮文庫)、『後退青年研究所』は『見る前に跳べ』(新潮文庫)という短編集に入っている。初出については、『不満足』は1962年5月(掲載誌不明)、『後退青年研究所』は昭和35年3月の『群像』である。もう一つ付け加えるならば、同性愛を主題にした『下降生活者』であり、これは昭和35年11月の『群像』が初出である。『個人的な体験』は昭和39年9月に新潮社から刊行された。『万延元年のフットボール』は昭和42年1月から7月まで雑誌『群像』に連載され、同年9月講談社より単行本として刊行された。『天国が降ってくる』は1985年10月、福武書店から刊行された。

さて、どうして市民的な徳やエートスという問題と転向が関わるのだろうか。それは一口で申し上げれば、この世の現実というのは我々の思う通り、願望のままではないからである。これらを検討する前に、先程の林達夫の昭和15年の文章について申し上げれば、そこには、転向ではないとしても明らかな擬装がある。つまり、彼は、自分の意見を「国策」というかたちで表現しているが、彼が当時の大日本帝国の国策などに賛成していたはずがないであろう。

そういう機微や屈折は、彼のエッセイの対象、主題にもある。それは、労働者の少年、職工の少年が学生服を着て贋学生になるということで、林は皮肉に付け加えているが、時代は変わったのである。というのは、少し前、マルクス主義が隆盛していた頃には、むしろ学生が労働者を真似、労働者の振りをしようとしていたのだ。ところが、弾圧によって左翼が崩壊し解体すると状況は真逆になってしまった。彼の観察はその社会風俗の変化を機敏に捉えている。

そして、彼は率直にそう云ってはいないが、職工が学生を擬装するという不幸をなくすためには、職工の少年がありのままで誇りや尊厳を持てる社会にするしかない。それは普通に読めば誰にでもすぐに分かるが、彼は戦争という時局に遠慮してか、用心深さのためか、そこまでは云っていない。しかし、ごく普通の読解力さえあればそのことは窺えるのである。