総体性、全体性について

上述の総体性について少し説明すれば、例えば、現在の日本社会について、個々の市民の次元でなく為政者とか統治のレヴェルでは、「原発事故の問題には取り組むが、格差の問題は考慮しない」とか、或いはその逆ということは許されないのではないか、ということである。勿論、個々の市民が全部に関心を持ち、取り組むのが不可能だということは言うまでもないが、政治家や官僚にとっては統治は職業であり、また、彼らは専門的な知識や情報を持つ集団、組織として分業体制を築いているはずで、個々の市民とか、市民団体とは違っているはずなのである。

例えば、東北の復興というテーマがある。昨日のシンポジウムもそうだったが、「復興」など欺瞞ではないか、というエコロジストの意見もある。私がそれに疑問なのは、大震災や津波で破壊されたインフラの再建や整備は絶対に必要で不可避だと思うからである。確かに、「3.11以前にそのまま戻ればいい」という意味での復興は欺瞞かもしれないが、災害で破壊された生活インフラや産業の再興は絶対に必要である。同様に、経済成長を疑問視する意見についても、強迫的な成長イデオロギーに囚われる必要はないということで(例えば「所得倍増」とか)、最低限の生活は維持されなければならないのである。

つまり、これまでの統治や生活のあり方を批判的に見直すべきだというのだとしても、人々の生活の基本や基礎は維持されなければならないということで、そのことは、辻信一さんも「ボトム・ライン」という言葉で表現していた。これまでの金銭とか過剰な豊かさよりも、生、生活、生命のほうが大事だ、というならば、その生は、エコロジカルな意味でも最低限の経済的な意味でも保障されなければならないし、物質的にも心理的にも一定の安心が必要である。安心、安堵、セキュリティ、さらには幸福や満足などは個々人の問題、課題かもしれないが、各人が自分なりの満足を見出すことができる条件を整えるというところまでは社会の側の課題である。

増税問題についても、確かに現在の経済状況で消費税を増税して大丈夫なのかということには強く疑問だが、それでもやはり徴税と再配分はまともに考慮しなければならない。例えば、現在、社会に批判的な意識を持つ市民の間では、社民党から民主党に移籍した辻元清美氏は極めて評判が悪いが、「増税そのものは不可避だが、まず、金融取引税や富裕税が先ではないか」という彼女の意見は一考に価すると思う。