「商品」とその魅惑

補足すれば、柄谷行人ベンヤミン批判は、都市を遊歩する人々が商店のショーウィンドウに陳列された魅惑的な商品の数々を眺め、そのイマージュを楽しむ、というような、美的、感性的な次元は、資本主義、資本制経済の把握として本質的ではない、ということだったが、私はそれにも疑問である。

どういうことかといえば、『資本論』のように考えれば、商品の価値は、抽象的人間労働の一定量が凝結したもの、というだけであるという結論になり、そこでは感性的な(また、当然、美的な)質とか有用性、使用価値などは無視、度外視される。我々の資本制経済社会で重要なのは、売られている商品、モノ・サーヴィスであるというよりは、それが「売れる」、「買われる」、消費、購買という契機においてその価値が実現される、利潤が揚がる、そのことによって資本が存続しさらには拡大できる、というようなことである。

しかしながら、それは、純粋に経済学的に考えれば、或いは、『資本論』の論理だけで考えればそうなる、というだけのことである。実際には、日常のなかで経験的に生活している我々にとって重要なのは、感性的で美的な質であり、有用性とか使用価値であり、さらには魅惑的な数々のイマージュである。自分の消費・購買行動をよく吟味したり反省してみればいいのだが、我々は経済合理性だけで買い物をしているのだろうか。商店を見て廻っての買い物であれ、インターネットでの買い物であれ、まだ見ぬ(手にしていない)商品のイマージュに魅惑され、欲望をそそられて、つい買ってしまう、のではないだろうか。日常生活の維持、身体の再生産に絶対に必要な食糧などは違うかもしれない(私は、食糧もそうだと思うが)。だが、書籍やCDなどの文化的な財の場合はどうなのだろうか。という問題を、ここでは提起しておく。