「自然」の多義性

ホワイトヘッドの最もよく知られた著作は『科学と近代世界』だが、これに限らず彼の著作を読んでいて驚くのは、コールリッジなどロマン派の詩人からの引用が非常に多いことである。それはただの飾りということではなく、ホワイトヘッドロマン主義のいうような考え方が大事だと考えたということだが、私の考え方は、合理主義的な近代科学だけを推し通すことはできず、どうしてもロマン派、ロマン主義的な次元、科学だけで証明できない生命的な自然のイメージが回帰してくる、ということである。

科学についてのホワイトヘッドバシュラールの考え方は違うだろうが、しかしながら、バシュラールにおいても、徹底的に合理主義的な科学認識論(エピステモロジー)と詩論の分裂があり、後者はあたかも「抑圧されたものの回帰」のようにみえるのである。科学認識論において非合理的なイマージュは徹底的に否定され排除されるが、それはそれで魅惑的なものなので、文学という次元で回帰してくるし、そして、人間の経験をその全体性という次元で考えれば、その両方がなければ成り立たない、ということである。

ホワイトヘッドバシュラールはともかく、近代の大多数の人々のことを検討してみたい。近代世界を成立させる要因をみっつ挙げれば、科学・技術、資本制経済、民主主義だろうが、資本制経済が最も重要であり、科学・技術も民主主義も文学も二の次だというのが私の考え方である。それはどういうことかといえば、別に我々は専門の科学研究者とか文学研究者とかでなくても、生活には何の支障もない、という意味である。しかしながら、もし、全く何も商品を売ることができなければ、そもそも生きていけないであろう。農民なら農産物を売るし、職人、独立生産者なら彼が作ったモノを売るし、賃金労働者だったらその人の労働力を商品として売るわけである。サラリーマン、ビジネスマンなどについても考えてみたが、彼らの労働は、古代以来の範疇でいえば「商人」なのではないだろうか。会社で事務を執っているサラリーマン、会社員のことだけを考えるとそうはいえないが、商談を纏めるという意味でのビジネスに従事し、それのために世界中を駆け巡り、非常に高度な経済的達成、利潤を挙げている人々の労働、活動を考えるならば、それは20世紀、21世紀における「商人」なのではないだろうか、と考えられる。そして、かつて、1970年代だっただろうか、東アジア反日武装戦線「狼」が、当時の日本の「経済帝国主義」、アジア侵略に反対して、次々に外資系企業を爆破した、ということがあったが、私は、東アジア反日武装戦線「狼」の問題意識は、当時の「商人」的なありよう、つまり貧しいアジア諸国に入り込んであくどい商売をし、現地の人々を苦しめながら自らは儲け続ける、肥え太り続ける、というありようへの倫理的な批判にあったのではないか、と思うのである。それが爆弾闘争、多数の死傷者を出すような闘争という表現のかたちを採用したということは、もしかしたら良くなかったのかもしれないが、だからといって、彼らの動機まで否定することはできない。

話を戻すと、私自身を含めて、現代日本に生きている人々の大多数は科学の専門家でも文学の専門家でもない、ということである。3.11の原発事故があったからといって、いきなりみんなが原子力とか核物理学の専門家になどなれるはずがないのは明らかである。だから、原発への反対は、それほど科学的、合理的な根拠がない感情論だ、と非難される場合も多いが、私が疑問なのは、現代物理学の具体的な詳細に至るまで勉強して完璧に把握することは、大多数の人々にはそもそも出来るはずがないではないか、ということである。そして、所謂専門家の間でも意見が分かれており、一体誰を信用していいのか分からないのが現状である。安全デマと呼ばれるものを拡散する専門家もいれば、逆に、大変恐ろしい、首都圏を含めたかなりの部分が壊滅する、癌になる、と予言する人々もいる。私に分かるのは、我々に合理的に予測できる部分と、その限界を超えた領域がある、ということくらいである。

それはそうと、元々の議論に戻れば、私は、近代以降の多くの人々にとって重要なのは、まずは資本制経済だと思うのである。何かを売らなければ生活していけないということで、これが一番の現実的な制約である。そしてそれだけではなく、経済とか社会制度に留まらず主観性の次元も含めて、合理主義の貫徹、支配が顕著になる。マックス・ウェーバーは、近代の基本的な性格を合理主義であり、脱魔術化であると論じていたと思うが、そういう問題意識で重要なのは、ただの科学・技術、デカルト以来の機械論的な自然科学だけでも、商品化の徹底という意味での資本主義だけでもなく、もう少し包括的で全体的、全面的なものである。

19世紀後半から20世紀、21世紀に掛けていえる傾向とか趨勢として、所謂先進国、先進社会の人々に顕著だが、ますます宗教を信じなくなってきている。伝統的な宗教が衰退している場合が多いのだが、そうすると、その間隙を突いて、創価学会とか、或いは近年の統一教会幸福の科学その他が蔓延る。世界の状況をみれば、アメリカは驚くほど宗教的、キリスト教原理主義的な部分が残存しており、進化論を否定する『聖書』の教育だけが行われている地域も多い。中東とかアジアでは、イスラームが支配的な価値観である場合も結構ある。アフガニスタンを検討してみれば、かつて一度は高度に近代化、西欧化が達成された国だったが、タリバーン政権になって女性の権利などが否定され、さらにその後、アメリカの軍事攻撃によってそのタリバーンが崩壊した。イランにおいても、イランのイスラーム革命によってイスラーム法学者の支配が確立され、そのことによって犠牲になったものがある、女性とか同性愛者などの性的少数者の人権が喪われたのではないか、ということを考慮する必要があるであろう。

私が言いたいのは、近代以降の一般的な傾向は、確かに、マックス・ウェーバーが言うような合理主義、合理化、脱魔術化の過程だが、人々の圧倒的大多数は、そういう脱幻想、欺瞞を打ち砕く、放棄する、削除するということだけでは我慢できないので、想像的な次元、イメージ、イマージュの次元、通常の経験が与えてくれる信頼を超えた何かを求めるのである。それはアメリカであればキリスト教原理主義の隆盛となってあらわれ、現代日本であれば、創価学会統一教会幸福の科学その他の跋扈となってあらわれ、第三世界ではイスラーム復興運動などとしてあらわれる。そしてそれはただの欺瞞とか誤謬というよりも、必然的である。

ホワイトヘッドがロマン派を必要とし、バシュラールが詩の魅惑的なイマージュを求めたというだけではなく、多くの人々は、例えばベイトソンに、デカルト主義に反対する「世界の再魔術化」を求めたのである。また、近代のナショナリズムだけではなく、芸術とかエコロジーなどの美的、感情的な次元も、宗教の代理として機能している可能性が非常に大きい。そしてそのことを単純に否定することはできないのだ、というのが、私の結論である。