限りなく、限りなく……

ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』について色々考えることもあるが、その一つは、ジェヴォンズを取り上げるなら、マルクス経済学と近代経済学の関係という難問に行き当たるはずなのに、彼らがそのことを少しも考えていない、ということである。

彼らは「限界効用」説に非常に特殊な解釈を施しているのだが、その当否はともかく、ジェヴォンズについてごく簡単に振り返っておくと、彼は19世紀イギリスの万能人的な思想家だが、若くして死んだために、その仕事はどの分野でも先駆者的なもの、萌芽的なものに留まっている。例えば、近代経済学新古典派経済学理論を確立したのはマーシャルなどであって、ジェヴォンズではない。また彼は、科学認識論、科学方法論について書いただけではなく、近代の記号論理学のパイオニアの一人でもあったが、彼の論理学、論理思想が主流、スタンダードになったというわけでもない。

どうしてドゥルーズジェヴォンズを好んだのかといえば、ジェヴォンズが「快楽と苦痛の微積分学」といういかにもドゥルーズ好みの物言いをしているからなのだが、そうはいっても、たまたまジェヴォンズがそういうことを口走ったということと、「限界効用」理論が快楽と苦痛の微積分学の実現なのかどうかは別問題である。

「限界効用」理論などを戦前、福本和夫は非科学的と看做したのだが、少なくとも、心理的であることは確かである。例えば、私が、喉が渇いているとする。ところが、水を飲むことができない。そういう状態が続くと、そのうちに、渇きは極限的な状態に到達する。そこでようやく、一杯の水を飲み干すとすると、そのときの快楽は強烈であり、最大である。ところが、水を、二杯、三杯、それ以上というふうにどんどん飲むと、快楽は薄れていく。

ドゥルーズ=ガタリの解釈が特殊だというのは、そういう「限界効用」を、アルコール中毒の患者の「最後の一杯」とか、夫婦喧嘩における「最後の決定的な一言」と結び付けるからなのだが、確かにそういう事象にしても心理的なものではあるが、経済学的にどうこう説明することができるものではないように思われる。そういう意味で、ドゥルーズは妙に文学的であり、実存的である。